第2章2-10②余命宣告後の過ごしかた
もうカウントダウンははじまってしまったのです。
余命宣告後の過ごし方
「病院で過ごす方が安心だということであれば入院で構いませんし、後悔のないように家族の時間を大切にするため自宅で過ごしてもいいように協力します。今決めても途中で変更しても構いません。こちらはどのようにでも対応出来るようにします。椿ちゃんは特別対応です。」
そんな有り難い言葉通り、本来なら入院して管理されるべき体調のところ、自宅に帰り、時間を指定して救急外来で特別対応してもらい、点滴を連日投与しながら命を繋いで過ごしました。
もうカウントダウンは始まってしまったのです。
これまで以上に1日1日を大切にしなければ…という思いと、椿ならまた乗り越えてくれるんじゃないかと期待も捨てられませんでした。
医療チームは椿のことを最優先に考えた治療を、できる範囲でしてくださいました。
椿の希望通り、急遽親族とおもちつきをした12月31日の朝。
終わるとすぐにお昼から病院で点滴をしてもらい休憩。
夜の18時すぎに帰宅して、急いで年越しの準備をして、家族そろって年越しそばをいただきました。
いつもは夜更かしが苦手な椿だったけど、この年は年越しまで頑張って起きていたね。
「あけましておめでとう!今年もよろしく!」と言い合って、今年の抱負は?と聞くと『なるべく家に帰ってくる!』と言ってくれました。
医療チーム集結 最終カンファレンス
様態が急変したのが年末だったこともあり、年末年始は倉敷中央病院のみの対応でした。
6日のカンファレンスで訪問チームも交えて現状の共有をし、それぞれ対応できる範囲で動いてくれる運びに決定しました。
『全力でサポートします』と、心強い言葉をもらいました。
本人の移動の負担を考えて、病院への入院は週に1度、合間に訪問チームがメイロンとカルチコールを自宅で点滴補充できるように対応する運びになりました。
★訪問診療→診察・薬の指示
★訪問看護→ケア・点滴補充
★訪問薬局→薬の配達
1月の中旬にはモルヒネとコートリルの内服が増え、少しずつからだが疲れてきていることを実感していく…
温泉旅行の宿泊は当初1月末の予約でしたが、カンファレンスのとき、予定を早めるように訪問診療の先生にアドバイスをもらい、急遽1月16.17日に変更しました。
家族旅行当日の朝、訪問看護師が体調チェックに来てくれました。
前日から右太ももに謎の痛みと赤みがありましたが、痛み止めを飲んで対応しました。
足の痛みで自由に動けず、抱っこすると少し触れただけでも痛がり、車椅子での移動も少しの振動で痛がり、大変ではありましたが、旅館の料理に感動し、景色の良い家族風呂に感動し、雪がちらつく中、家族で露天風呂に入ることができました。
帰りには好物の丸鶏のお店、椿がずっと行きたかった梅専門店にも行け、大満足の家族旅行、家族の良い思い出になりました。
その1週間後、椿にはもう旅行に行けるような体力はなくなっていました。
「早めた方が良い」と言ってくださった先生に心から感謝して過ごしました。
薬のこと・体調の変化
2020年1月13日~
モルヒネとコートリル内服 開始
アルブミン・グロブリン・輸血
カルチコール・メイロン補充継続
バイタル60台 酸素濃度40~60%台
●12月末から徐々に尿が出なくなった
→アルブミンを補充すると少し出るようになる
●黒っぽい下痢が頻回に出るようになった
●力なく眠る時間が増える
★この時の内服薬【常備薬16種、頓服薬6種】
モルヒネを飲ませると、「あしの痛みがなくなった!」と喜んで起きてきた椿。
でも陽気に高笑いする椿を見て、家族はその異様さに「本当の椿じゃない」と感じて辛くなり、改めて薬の怖さを感じました。
でも、椿はもうそれがないとしんどかったので、指示通り内服しました。
その薬を飲むと眠る時間も増えてしまう…しんどくないのは良いこと、だけど椿のようで椿じゃない椿を見守る家族には、辛いお薬だと感じました。
だけど、このお薬があったから痛みやしんどさから守られて一緒に過ごせたのが事実です。
一喜一憂する日々
12月27日に余命宣告を受けてから、1日を丁寧に過ごすつもりが、思っていたよりも足早に過ぎていきました。
1月に入り、訪問チームが自宅に来てくれる安心感の中過ごしていました。
はじめの2週間くらいは、朝は7時頃に起きてきて、いつも通り椿と息子と私の3人で朝食をとりました。
毎朝一緒に弟を学校へ送り出し、その後はまだ動けるうちに外出を優先しました。
まずは美容室へ。
いつも切ってもらう私の友人のところへ連れて行き、途中しんどくなり椅子を倒しながらも可愛く切ってもらいました。
この時、友人には余命宣告を受けていることは伝えていませんでした。
「椿の奇跡」を信じていたからです。
その足でイオンへデートに行きました。
『椿がお年玉で好きなものを買う企画』です。
Switchのソフト2つ、駄菓子(弟へのお土産も)、ハムスターのガチャガチャ6回分、両親へのお土産のお菓子、はじめての香水を買い、大満足のデートになりました。
次の日は大好きなハムスターを2匹(1匹じゃ寂しいから2匹)買いに行きました。
名前は『幸くんと福くん』「椿に幸せを運んでくれるために来てくれたから、2匹合わせて『幸福くん』」と教えてくれました。
その後は行きたいところが特にないと言って、テレビの録画していたものを観たり、動画を観たり、自分の動画作成をしたりして過ごしていました。
昼食はその日の具合で食べたり食べなかったり。
その後はうとうと…家族がそろう夕方までしっかり休息し、みんなの帰りを待ちました。
我が家では、夕食はみんながそろう大切な時間だから、椿にとっても1日の中で一番大好きな時間です。
家族みんなで、椿がリクエストした夕飯を食べた後、少し話したり、一緒に卓上ゲームやテレビゲームをして遊んだりしてから眠りについていました。
でも、1週間ごとに少しずつできることが減っていき、朝も起きてこなくなって、息子のお見送りもできなくなりました。
昼間もスマホを片手に力なく眠ることが増えていきました。
家族旅行のあとから、入院して点滴で補充してもらうと、翌日の午前中までは元気なのに、朝食後に急激に体調が悪化することが2週間続きました。
もう、補充されてもそれが負担になってきているのだと気が付きました。
椿のからだは少しずつ、確実にむしばまれていきました。
モルヒネで痛みや呼吸のしんどさを抑えながら様子をみる生活が本格化していきました。
椿の様子に一喜一憂する毎日を過ごしながら、1月22日、血液検査の結果から酸性の傾きの改善がみられ主治医から「危機的状況から脱出したといえるでしょう!」と嬉しい報告を受け「やっぱり椿はすごい!今回も乗り越えたんだ!」と喜びました。
でも、実際、数値は良くなっても椿の息苦しさやだるさは変わらない様子でした。
そんな都合のいい話じゃない。
わかっているけど最後まで期待したい、諦めたくない…。
椿の命の期限を知りたくて、訪問診療の先生に電話で確認すると『命の終わりが近づいている』と教えてくれました。
「数値はもう頼りにならない。椿ちゃんの様子をみて判断すること」だと言われても、家族にはそれがいつなのかわかりませんでした。
もうあまり話してくれなくなってしまった椿を見守ることしかできない歯がゆさの中、椿を家族の中心に置いて、限られた時間を一緒に過ごすことしかできませんでした。
低空飛行ながらも幸せに慎ましく懸命に
余命宣告を受けてから約1ヶ月後、1月が終わろうとする頃には、元々細かった椿は更にやせ細り、1ヶ月前は少しきつそうだったベビー用おむつのLサイズがピッタリになり、だいぶ骨ばってきました。
褥瘡(じょくそう)に注意するように看護師から指示を受けていたけど、和室にレンタルしている自動昇降式のふかふかベッドよりも、家族が集まるリビングで過ごしたいと、昼間はこたつのところに保育園用のお昼寝布団を敷いて、そこに転がって眠ることが増えました。
眠るばかりでご飯は1日2食、食べるか食べないか。
隠れてまで必死になって飲んでいた水分も、この頃には少ししか欲しがらなくなっていきました。
でも、まだ少しお話はしてくれるし、毎日食べたいものをリクエストしてくれていました。
眠る椿の隣で母が作った椿専用特別仕様の(中心静脈カテーテルを出しやすい前ファスナー・心電図がポケットにしまえる機能付き)病衣を見せると、「ママすっげ!」と言いながら満面の笑みで服を抱きしめてくれました。
それからは母特製病衣2着を着回して、病室が暑くても(空調が暖かめに設定されているので看護師は冬場も半袖で過ごすくらい)「暑い!」と言いながら脱がずに毎日気に入って着てくれていました。
これが母が娘に作った最期のプレゼントになりました。
【関連記事】
2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
②余命宣告後の過ごし方
2-11 ①最期の14日間-1