娘の人生をまとめた冊子『病気と共に生きる』を作成した理由②
娘を失って
娘が旅立った2022年2月4日、椿の呼吸が止まった時『娘の人生が終わった』と呆然とした気持ちと、これ以上しんどい思いも、辛い処置もしなくてもいいし、この先の不安もなくなり自由になれたんだ…と安心する気持ちもありました。
でも、娘はまだ生きたかったはず…。
そう思ったのは娘が書いた一通の手紙の存在でした。
娘が学校の授業の一環で私宛に書いた手紙です。本当は学校の参観日にみんなの前で読む予定で練習していたそうです。でも、娘は何度誘っても参加日には参加せず、その手紙が学校から返されても読んでくれませんでした。
余命宣告を受けた2021年12月27日の数日後、突然、「今日なら読んでもいいよ」と言ってくれたので動画を撮る承諾を得て、読んでもらいました。
その時の動画を椿の葬儀の最後に、マイクに当てて聴いてもらいました。椿の最後の言葉として、椿の声で届けたかったのです。
椿は一人の人としてしんどいけど、心臓病であることによろこびやほこりを持っている。
こういう想いを持って最期まで立派に生き抜いた娘を誇りに思い、みんなに知ってもらい、最後に娘を褒めて欲しいと思いました。
娘の最後の言葉としてみんなに聴いてもらえ、無事に見送ることができました。
喪失感と後悔の念を救ってくれた天国の娘からのメッセージ
娘を火葬して葬儀場へ戻ったとき、さっきまでそこにあった椿の姿が無くなってしまったことに気付き、私は声を上げて泣き崩れました。
14年間、娘中心に過ごしてきた私は、娘を失い、どうしようもない喪失感と、
「あの子を幸せにしてやれただろうか、もっとしてやれることがあったんじゃないだろうか。」
と、母親としての不甲斐なさから後悔の念に潰されそうでした。
翌日の夕方、娘の荷物を整理しようとカバンのポケットに入っていた手帳を開くと、娘からメッセージが残されていました。
『ママ』と大きく書かれた言葉に娘から呼びかけられたように感じ、思わず「椿、そこにいるの?」「今、書いたの?」と頭の中で問いかけながら、震える手でページを進めました。
違う、ひとりで〝死〟を受け止めて、残される私を心配して、
メッセージを残してくれたんだ…
この娘からのメッセージに「前を向いて進まなくては」と顔を上げました。
旅立ちからのはじまり
葬儀から1週間後、学年主任の先生が「私の勝手な想いですが、来年度椿ちゃんもここで一緒に卒業式ができたら…と思っています。」と言ってくださいました。
とても嬉しく温かい気持ちで帰宅し、夫にそれを伝えた時にはじめて違和感を感じました。
もし椿が生きていたなら3年生はこの地域の中学校へ通う予定はなく、卒業式もここで参加する予定ではなかったはずです。
亡くなったからといって卒業式に参加する権限をもらえるというのは、娘が生きてきた時間のいろんなことが『キレイゴト』で終わってしまうのではないかという不安にかられました。
後日、先生には改めて時間をもらい「先日は卒業式のお誘いいただいて嬉しかったです。ありがとうございます。来年度は椿は転校する運びになっていました。その通り、転校したと思ってください。それで、ひとつお願いがあります。椿の卒業制作として、この冊子を生徒に配っていただけませんか。」と伝えました。
娘が学校へ通えている日は、ある程度元気に過ごせる状態でした。
体調の悪い日は欠席するし、登校していてもしんどくなれば早退します。
だから、学校にいる間はある程度元気な椿でした。
学校の先生へは病名や症状はその都度伝えていましたが、それは細かく生徒たちへは伝わっていなかったように思います。
もちろん、週に1度学校を欠席してまで通っていた病院でどんな治療をしていたかも知ることはありませんでした。
だから、知って欲しかったのです。
椿がどんな病気で、どんな治療をして、どんな風に過ごして、どう思って生きて、どうしてこの中学校を選んだのか…生徒のみんなにも伝わるように20ページにまとめたものを椿の卒業制作として冊子にして、信頼している学年主任の先生に託しました。
2年生が終わる年度末に。
身近にいた大切な人が旅立ってしまったとき、少なからず後悔の念が押し寄せてくる瞬間や時間はあると思います。
私には思うところが多すぎて潰されそうになりました。
「最期まで頑張らせ過ぎてしまったのではないだろうか」
「これまでしてきた選択は正しかったのだろうか」
「私の人生に付き合わせて振り回してしまったんじゃないだろうか」
「椿は幸せだったんだろうか」
そういった後悔の念が先生とのやり取りの中で『椿の人生を知ってもらいたい』という信念に変わっていきました。
この頃、Twitterで応援してくださっていた方々がこの冊子を読んでみたいと言ってくださり、一般用に作り直すことを決めました。
ひとりでも多くの方に『病気と共に生きる』ことでどういう生活になるのか、不器用に生きた私たちのことを知ってもらう事で、
私たちが生きづらさを感じた環境が、未来の役に立つことがあるのではないか、誰かの道標になれるのではないかと思えたのです。
娘が手帳に残してくれた言葉を胸に必死に書き上げ、娘のお誕生日目前の10月初旬、82ページの冊子が完成しました。
ぱらママの協力により300冊印刷した冊子は、250冊が全国へ、50冊はお世話になった先生方や身近な人へ配ることができました。
私たちが望んだ未来を歩めなかったのは、情報を知るすべがなく無知のまま手探りで過ごして来たこと、
転居が多く地域に根付いた育児ができず社会から孤立してしまったこと、家庭環境の問題、教育環境の問題など、原因はたくさんあります。
私たちのように、『一般的な育児』ができなかったとしても、どこにいても継続して支援してもらえる体制があれば、
もっと違う未来があったのではないかと想像します。
そして、何より社会的に難病児、医療的ケア児、発達障害児に対して理解ある社会を作る努力をして欲しいと願います。
みんなで『この子にとって最善の場はどこか?』を考え、協力して環境を整えたり、人員が配置できれば、現場で生徒に関わる教員の負担が減って、そういう子どもたちの受け入れが可能になり『その子にとっての最善の居場所』の選びしろが増え、幸せがひとつ、またひとつと増えていくのではないかと…私はそう思うのです。
だから、まず難病と共に生き抜いた椿の人生を知ってほしい。
『知ることは障がいを無くすこと』という言葉を教えて下さった方がいます。
みなさんにもぜひ、この合言葉を、愛言葉として胸に置いて、日々を大切に生きてほしいです。
たくさんの願いを込めて、冊子『病気と共に生きる』を贈ります。