娘の人生をまとめた冊子『病気と共に生きる』を作成した理由①
家庭環境
私は高校1年生から父子家庭で育ち、椿の父親は幼稚園の頃から母子家庭で育ちました。同じ会社に1年違いで入社した彼との間に椿を授かり、結婚しました。
私は椿が心臓病だとわかったとき、まだ若く未熟だった私たち夫婦に、命の重さを教えてくれるためにこの子がきてくれたんだと感じました。
だから、できる限り精一杯の愛情をそそいで育てようと心に決めました。でも、夫婦の関係はうまくいきませんでした。『心臓病というリスクを背負って生きている娘にこれ以上リスクを増やしてはいけない』と、家族としての時間を大切にしながら10年間ともに過ごしました。椿が小学1年生の頃弟が産まれ家族が増えましたが、色々な問題が起きて私の精神面が弱ってしまい、椿が小学4年生の夏に離婚しました。
当初から子どもの育児はほとんど私のワンオペ状態で、親族にもなかなか頼ることもできず、協力者のいない状況と度重なる入退院により社会にも馴染めず孤立していきました。住居を転々としたことで根付かなかった地域との連携などと重なり、娘に十分な生活環境を用意してやることができませんでした。
通常の生活をこなすだけでも大変な難病児の生活はさらに困難を要しました。
病気と共に生きた娘の人生
そんな環境の中でも、生後8日目で先天性心疾患が発覚した娘は何度も手術を受け、入退院を繰り返しながら14年間精一杯生きました。
先天性心疾患といってもその病状や病名は様々です。でも、心疾患に共通しているのは〝見た目にはわかりにくい〟ということ。
これは、利点でもあり、難点でもあり、娘の人生においては重要なことでした。
身体障害者手帳1級を取得していた娘は、病院では難病児として丁重に扱われ治療を受けてきましたが、一歩外に出てしまえばその環境は一変します。
フォンタン手術前の2歳頃までは、酸素療法のため日中も鼻に酸素チューブを付けて外出していたので周囲の人にも病児だと認識されている様子でした。
でも、2歳半頃フォンタン手術を受けた後は酸素濃度が少し安定し、日中は酸素チューブを鼻に付けることがなくなりました。
寝たきりも多く、脂肪制限、水分制限などにより体が小さく育っていった娘は、一般的な成長曲線には入っていなくても、自立して歩き、達者に喋り、自分から積極的にコミュニケーションを取りにいく子でした。
私の教育方針で『娘が先の人生で困らないようにできることは自分で』と育てたこともあり、身の回りのことは少しの介助があれば可能で、周りの理解と協力もありながら幼稚園も小学校も地域の普通学級に通えていました。
そのため周囲から健康児に見られることがほとんどで、娘が自分から「つばきね、しんぞうがわるいんだよ!」と話を切り出し、相手(スーパーなどで出会う見知らぬおばちゃんやおじいちゃん)に驚かれることが多々ありました。
見た目は健康児、病気は難病の娘。
これが想像以上に厄介でした。
〝こちらから言わなければ健康児に見える〟娘は、勝ち気な性格でお喋りが上手で理解力がありました。そのため〝ある程度のことは出来る〟と私も思っていましたし、周囲からもそう認識されていました。
でも、だんだん年齢とともに無理が生じるようになっていきました。
難病と発達障害と学校社会
小学4年生の時にフォンタン術後症候群を発症し、5年生の冬に余命宣告を受けました。半年間の入院生活を経て、娘は奇跡的に命の危機を乗り越えました。
そして、『少しでも病院の外で過ごせるように』と、脇腹のあたりに医療器具(カテーテル)を付けながらの前例のない特殊な生活が始まりました。
6年生からは普通の生活に戻れるよう、慣らしながら無理せず午前中のみ登校して配慮してもらいながら学校生活を送り、卒業間際には6時間通えるようになりました。
でも、娘の体調は万全なわけではなく、中学校進学前、娘の進路先に悩み、前もって動き出しました。
その当時通っていた地域の普通学校の支援級で特別待遇できないかを相談したり、県内唯一の病弱児学級のある早島支援学校へ見学へ行ったりしました。
でも、普通学校の支援級で特別待遇は今の制度では難しく、早島支援学校は同年代の子どもが通っておらず、娘が行きたがりませんでした。
中学生という多感な時期に同級生のいない学校へ通うより、少し無理をしてでも同級生のいる学校へ通いたいという娘の思いを優先し、別の地域のエレベーターが設置されている少人数の普通学校の普通学級へ通う事になりました。
期待に胸を膨らませ、心機一転スタートした新生活、本当にたくさんの事が起きた中学2年間の学生生活でした。
病気の進行と発達障害の進行による二次障害…
私生活でも、闘病生活でも、それは目に見えて現れていきました。
だんだんと娘に手を焼くようになっていった先生たち。2年生になってから少しずつ不登校になった娘。
2年生の9月、発達障害の診断がついたことにより、中学校の先生方から来年度、3年生は早島支援学校へ転校を勧められました。
娘は、中学生活最後の3年生もこの地域の中学校へ通うことを望んでいました。学校側と病院側と何度か話し合いをしましたが、受け入れてもらえる環境は整わず、気持ちを切り替えて早島支援学校へ転校する運びになりました。
そして、その1ヶ月後、2度目の余命宣告を受けた娘の命は少しずつ尽きていき、3年生を迎えることはありませんでした。