第3章3-4③社会との関わり
親の社会的居場所と就労問題
子どもが社会からはみ出さないようにするだけではなく、難病児、障がい児を育てている親御さんの孤立化も深刻な問題だと考えます。
長期入院や自宅での療養を余儀なくされる子育てになるため、どうしても外部と接触する機会が減り、社会との間に溝が生じてきます。
それぞれの病気に特化したコミュニティがあったりもするので、うまく輪の中に入って生活できる家族も少なくないと思いますが、わたしはそんなに器用に生きられませんでした。
わたし自身、高校生のときからアルバイトを絶やさず続けてきて自分の携帯代やバスの定期代など自分で工面するようにしていました。
そういった経験から「仕事を続けて自分で自分の生活を繋がなきゃいけない」ということが常に頭にありました。
そのため、「働かない」「専業主婦になる」という選択肢はありませんでしたし、実際生活をまわす面でも働くことが必要でした。
椿の育児、介護がメインだけど、自分のメンタル面でも社会に出ることは可能な限り続けるべきだと思いました。
入院の付き添いが長期になってくると、社会との関わりがなくなっていきます。
でも、仕事をしていると母親としてだけではなく、一個人として社会での居場所ができるのです。
母親、妻、ではなく、ひとりの人として社会的に自分の居場所、役割があるということは自分のメンタルを保つ面でも大事なことだと思います。
難病児を抱えての就労とは
でも、難病児を抱えながら「普通に仕事をこなす」というのはかなりハードルが高いです。
椿を出産した当時、わたしは産休をもらっていて、産後は職場復帰する予定でした。
でも、椿が心臓病だと発覚したとき、迷わず4年勤めた会社を退職する選択をとりました。
その後、椿がNICUに入ってからは面会ができない時間帯の夜間にアルバイトをはじめました。
できるだけ椿に会える時間を優先して面会時間ギリギリまで面会して、病院からそのまま仕事場へむかいました。
夜間、椿に会えない時間に働いていると安堵感がありました。
それは、家にひとりでいて「産後すぐなのに子どもと過ごせない自分」を責めなくて済む、という安堵感だったのかもしれません。
付き添いが必要な病棟入退院が続くようになってからは、椿の父親が付き添いを替わってくれる週末のみ勤務するようにしていました。
夕方交代して仕事に行き、家に帰って家事をしてシャワーを浴びたら、入院の準備をして、1週間分の自分の食料と椿のおむつなどの買い物をして病院に戻って、付き添いを交代してから就寝していました。
病院に着く頃には朝になるので少し寝たら椿のサイクルに合わせて1日がスタートしていました。
このころは、家族いっしょに暮らせる家が用意できていなかったので、いっしょに暮らせる家を借りるためにも少しでもお金を稼ぐ必要がありました。
椿が安定する3歳くらいまでは週末に夜間の仕事しかできませんでした。
椿が元気に過ごせるようになってきた年長さん(5歳の頃)、幼稚園に送った後からお迎えまでの時間、9時から13時半までの間、スーパーのレジ打ちのパートに就きました。
はじめは順調にこなしていましたが、椿が体調を崩して急遽(きゅうきょ)休みをもらう日や、熱が37.5度以上出て、途中でお迎えに呼ばれることもありました。
そうすると上司から「代替えを立ててから休むように」という指示を受けました。
ベテランさんばかり、人数もぎりぎりで回しているような職場環境で代替えを用意してから急な休みに対応することは難しく、椿の入院をキッカケに辞めることにしました。
その後も、シフト制が多い昼間の仕事を長続きさせることは難しかったです。
そもそも子どもの送迎を優先してできる仕事には限りがありました。
子どもを送り出した後、9時から13時半までに仕事を終わらせて14時には幼稚園のお迎えに行かなくてはなりません。
小学生になってからも14時や15時迎えなので、その当時はその時間帯の勤務はなかなか求人がありませんでした。
それに加えて、ランダムに起こる急なお休み、早退を理解してくれる会社はなかなかありませんでした。
それゆえ、入院などで1週間以上の休みが続く場合は長続きせずアルバイトを点々と続けてきました。
居酒屋、飲食店のレジ・ホール、スーパーのレジ・品出し、運送会社の荷物の仕分け、清掃業務、ポスティング、内職、事務、さまざまな職種にチャレンジしました。
そして現在の会社にたどり着いたのは、今から8年ほど前になります。
今勤めている会社の方々は、家庭の事情をよく理解してくれ、臨機応変にそのときどきのわたしたち家族の生活スタイルで続けられるようにさまざまな仕事を提案してくれました。
離婚後、椿が体調を崩し余命宣告を受けたころ、わたしが会社に出勤しなくてもいい就労スタイルを提案してくれてすごく助かりました。(今ではコロナ禍の経験から出社を控えた勤務スタイル、職種も増えましたが、当時はそういう仕事はなかなかめずらしいスタイルでした)
ひとり親で、収入源はわたしのパートで稼げる分と、国からの支援金(児童扶養手当¥50,000/ふたり分)のみ。
国からの支援金は家賃(2DK¥45,000+駐車場代¥5,000)に消え生活費全般を稼ぐ必要がありました。
そんな生活のさなかでも、入院中も継続してできる在宅での仕事(ライター業務、取材、営業、書き起こし、清掃業務など)は助かりました。
椿の体調次第で左右されるわがままな出勤状況でも、いつも応援してくれました。本当に感謝しています。
余命宣告後の2ヶ月近いお休みもこころよく了承してくれ、いつでも戻れる居場所を用意してくださいました。
こういう理解のある職場に巡り会えることは、そうあることではないと思います。
同じように難病児を抱えて介護をしながら仕事をされている方も多くなってきているように感じますが、就労先は十分には用意されていないのではないでしょうか。
現代では少子化にともない、共働きも増え、子育てについての理解があったり、コロナ禍でリモート出勤が可能になったり、自由な勤務体制も整ってきているように感じます。
リモートなどの、出社しなくてもできるお仕事はうれしいのですが、コミュニティもしっかり保てるようなものが理想的だと考えます。
今後、闘病生活を送る家族にも優しい職場環境が整ってくれることを望みます。
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3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
3-3 ①医療との関わり
③社会との関わり
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