第3章3-4②社会との関わり
社会への挑戦と暮らしの知識
社会に子どもを出す、まずはじめの第一歩は幼稚園でした。
この時も住居を変えるタイミングと重なり、地域に相談したりはせず、自分で下調べに行くところからはじまりました。
子どもの病気を優先するか、家族の事情を優先するか、家庭それぞれに事情があると思います。
病院までの道のりも加味して考えたりはしましたが、わたしたちの場合はやはり、父親の職場近くを優先に話が進みました。
ここでも知識の浅さから、この地域の小学校が全校生徒1,000人以上のいわゆる「マンモス校」であることを理解していませんでした。
住宅屋さんに「心臓病だから不安だ」ということは相談していましたが「お子さんが多い地域なので助け合って生活できるし住みやすいですよ」というお話もあり、この地域に決まりました。
親がきちんと子どもの問題を把握して、何年か先までの見通しをたてて地域選びをしなければいけないという点がこのときは明確には頭にありませんでした。
幸いにも、この頃の椿は予定されていた3回の手術を無事に終え、「本人の様子を見ながら無理がないように普通に生活していい」と主治医にも言われていたので、そこまで気にしていなかったのも事実としてはあります。
「難病児」としてではなく、「難病を抱えているけど少し助けてもらえば、普通に生活できる子」として暮らしていました。
難病児として、障害者手帳1級所持者として、受けることが可能な制度が何かしらあったのかもしれませんが、この頃は「普通の子どもたちの中で少し特別扱いしてもらう生活」で十分に成り立っていました。
いつもどこへ行っても「難病児であるということ」の説明も対策も手探りでした。
椿の病気の説明などは、わたしが自分で書き起こした書類を、先生に渡して説明していました。
幼稚園年少さんや小学1年生、処置等で長くお休みしたあとなどは、先生が安心してみれるようになるまで、椿が安心して過ごせるようになるまで、毎日教室にいて見守りスタイルをとりました。
みんなの先生のように、幼稚園の先生のお手伝いをして机を運んだり、子どもたちのお世話をしたりして過ごしていました。
わたしは子どもが好きなので負担ではなかったですが、こういう時間を負担に感じる親御さんもおられると思います。
地域の保健師ときちんと連携が取れていたとしたら、幼稚園や小学校へ「支援員」が手配されていたかもしれませんが、支援員を要請するのも審査や基準などが厳しいという説明を小学校に上がるときに小学校の教員から説明を受けました。
こういった話も、親が直接役所へ交渉に行かなくてはならないのか?、よくわかりませんでした。
役所へは1年に1回以上は椿の書類の更新へ行っていましたが、やはりなにか特別な措置を取られることはありませんでしたし、こちらからも問い合わせもしませんでした。
幼稚園や学校行事の課外授業なども、なるべくわたしが一緒に参加して(他の保護者は不参加)近くで見守るスタイルが多くありました。
これに関しては椿の成長を近くで見守れることをうれしく思っていたので、やはり負担や不満はありませんでした。
いっしょに過ごさなくなってからも、幼稚園のころから中学校までだいたい毎日担任の先生と顔を合わせて1日の報告を受けていました。
でも、こういった「毎日教室にいて見守るスタイル」「毎日親が先生と面談するスタイル」や「他の保護者が来ない行事に親が参加して近くで見守るスタイル」というのは、子どもの自立に大きく影響があったのではないかと考えるようになったのは、小学校6年生の修学旅行の準備の時でした。
自立と挑戦と拒絶
小学6年生の椿は、自分で修学旅行に参加する意思があるのに、まるで他人事のように大事な話を聞こうとしていない様子でした。
「ママも参加するから大丈夫」だと過信しているようにみえました。
案の定、持っていくものの準備も、修学旅行先の予定も、自分では全く把握していなかったし準備する気配もありませんでした。
いつも守られていて「誰かがどうにかしてくれる」「大事なことはママと先生が話しているから自分は関係ない」といった様子で、本来なら子どもが自発的にするべき事も、先生や親が関わりすぎることで、自立の芽を積んでしまっていたのかもしれません。
そう思うようになってからは、『本人の自立を促したいのでなるべく母は介入しないようにしたい』と学校に掛け合い、本人と先生で話し合って解決してもらうようにしていきました。
小学6年生からの挑戦なので先生の負担は大きく、なかなか難しい問題が浮き彫りになりました。
でも、わたしは椿の自立を信じていました。
親と本人と教員の気持ちやそれぞれのできることに限界があるため、中学校入学後にだんだんとバランスが崩れ、居場所を追いやられる結果になってしまいました。
椿の自立を願っていたのに「もうここでは面倒を見られないから他へどうぞ」と、社会から拒絶されているような感覚を受けました。(次の「3-5教育との関り」で詳しくお話します)
こんなに苦しむことになるとは思いもしませんでした。
学校を責めたいわけではなく、こうなってしまう前に打つ手段がなにかあったのではないかと思うので、やはり一番は自分の知識のなさや偏った考えに無念が残りました。
マニュアルがないもの(例外)に対する対処法はきっと学校それぞれだと思います。
こういった椿のような例外(難病児)の事例を公にして学校だけでなく、地域全体で共有して対処法を考えていけることが理想的だと考えます。
難病児や障がい児の教育問題に関して、地域全体で把握して、自立をしていけるよう支援すべきだと思います。
医療のところにも書きましたが、共有できる電子カルテがあると、その子どもの病状も理解でき、教育に関しても統一性が持てるようになると思います。
全国どこへ移住したとしても共有して把握してもらえる方が、災害や親の不幸などの万が一があったときなどにも安心だと考えます。
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2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
2-11 ①最期の14日間-1
3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
3-3 ①医療との関わり
②社会との関わり
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