第3章3-4①社会との関わり
長期入院が多かったので外の世界(社会)とは関わることが少なくなっていきました。
病気のことが一段落して病院から離れた時、急に不安にかられました。
難病児と共に生きながら社会に出るということは…?
支えってなんだろう
椿の心臓病が発覚して初めての手術を受けた後、岡山大学病院から『高額医療』の手続きを急いでするように話がありました。
病名に続き、初めて聞く制度などの単語ばかりで内容も理解できていないまま言われた場所へ行き、言われるがまま手続きを済ませた感じでした。
椿が先天性心疾患だったという事実、生死を彷徨い小さな体で手術を終えたばかりという現実…頭のなかはまだまだ混乱中でした。
周りにそういった「病気の詳しいこと」を聞ける人もいなかったし、「病気を抱えて生きていく方法」を聞ける人もいませんでした。
唯一、わたしの父の姉が看護師だったのですが…
椿の手術が無事に終わり、ひとりで自宅に帰ったとき、その叔母が実家に来てくれました。
すがる思いで「おばちゃん…」と目に涙をためながら駆け寄ったのですが、
「これから辛い思いするんはあの子やけん、あんたがしっかりせなおえんよ!」
と喝を入れられ、
『頼ってはいけない(甘えてはいけない)。自分がしっかりしなきゃ。』と、頼ることがいけないような気分になりました。
それっきり親族に相談することはありませんでした。
わたしはこのとき「甘えたかった」のだと思います。
自分の悲しみや悔しさ、どこにぶつけていいのかわからない辛さ、嘆きを。
自分の母親が生きていたら、きっと泣きついていたと思うから。
それを受け止めてもらった後に、「いっしょにがんばろう!」と言ってほしかったのでしょう。
このときはあまり自分の気持ちがわからなかったけど、今ならそうなのだとわかります。
社会からの孤立
出産後、なにも問題がない場合は、母子ともに自宅に帰り、子どもといっしょに過ごすのが「普通」ですよね。
椿は、生後5日目に自宅に帰り、いっしょに過ごしたのは3日間。
生後8日目に呼吸困難になってからすぐ手術をしたため、生後1ヶ月まではNICUに入っていました。
そのため、面会が許されている昼間の限られた時間をいっしょに過ごすことしかできず、産後すぐにも関わらず「子どものいる生活」ではありませんでした。
その後、無事に退院したものの、椿は無脾症候群(むひしょうこうぐん)で感染症をもらいやすく、バイキンをもらったら重症化しやすいため命の危険がありました。
「なるべく他者との交流は控えるように」と、主治医にも言われていたので、月に1度の病院の日以外はなるべく家にいるようにしました。
週に1度買い物に出掛け、お店に入るときは、椿を車で待たせている間にわたしがひとりでサッと買い物を済ませるようにしていました。
その後、生後2ヶ月頃にはまた入院生活に戻りました。
今度は完全付き添いの小児病棟へ入院するようになり、椿とふたり、病院内で大切にまもられながらぬくぬくと過ごしました。
その後も入院して退院して…退院したとしても外出はしない生活の繰り返し。
椿が生後7ヶ月のとき、病状が落ち着いてきたこともあり、家族で住むための家探しをはじめました。
初めての物件探しで選んだのは、父親の職場近くの安い物件で、なんのゆかりもない町を選んでしまいました。
私の実家からは1時間、父親の実家からは30分ほど、かかりつけの病院へは車で40分から1時間かかりました。
少し椿の体調が安定してきた1歳すぎ、外の生活(社会)とズレがあることにようやく少しずつ気がつきました。
よくある出産先での交流会や、地域の親子教室などの集まりにも参加したこともなかったし、本来なら地域の保健師と連携を取りながら進めていく地域のやり取りも入退院の繰り返しで全くできていませんでした。
その後も、不定期に調子を崩しては入院を繰り返し、次の手術を受ける2歳半くらいまではなるべく自宅で過ごし、さんぽに出ることも少なく、地域住民との関わりをもてずに過ごしました。
もちろん、その頃になっても子どもたちが集うような地域の集まりに参加したことはありませんでしたし、地域の保健師や民生委員の方に会うことはありませんでした。
地域の役所には書類の手続きで出入りしていたので、こちらの難病指定などの情報は開示していましたが、なにか連携を取るような話にもなりませんでした。
14年前はネット社会と言えるほどの情報や繋がりもありませんでした。
情報を得たり繋がったりするためには、ある程度自分からどこかへ出向かなくてはなりませんでした。
でも、難病のため外部との接触がうまくできていないことで、社会から少しずつはみ出していました。
この時、もっと積極的に情報を得たり、繋がったりしていれば、コミュニティが広がってまた違う未来があったかもしれないと、のちに悔やむことになります。
孤立と孤独と葛藤
社会からはみ出すということは『孤立』してしまうので不安にかられます。
情報もないため将来の明確なビジョンがなく、選択肢が少ない状態になります。
相談先もなかったため、あらゆることの決断は自分でしなければなりませんでした。
子どもの人生を決める選択は、ある程度の年齢までは親が導くようになります。
難病児が安心して暮らしていけるにはどの選択が正しいのか…
この子が幸せでいるための選択はどれなのか…
父親と相談したくとも、育児に参加してくれない父親だったため相談には応じてくれず「結果だけ教えて」と突き放されてしまい、椿のことを決めるのはいつもわたしひとりでした。
責任もわたしがひとりで背負います。
その重さはいつも結構なものでした。
こういう精神的ストレスや子どもの将来に対する漠然とした不安感は常に付いてまわりました。
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