第3章3-1⑤病気と共にある生活とは
少しでも寄り添いたい…でも体が資本
小さな時から辛い治療、手術、絶飲食、水分制限などをがんばって耐えている娘に少しでも寄り添おうと、私も椿に合わせて同じ時間飲まず食わずで過ごすようにしていました。
必死に耐えている娘の前で飲んだり食べたり、平気でできるはずがありません。
椿が治療や手術室に入ったら栄養補給をするように看護師からも声かけをされました。
でも、はじめはそうすることに罪悪感もあり、食べることができずにいました。
椿ががんばって治療、手術を受けているのに自分だけ飲んだり食べたりするのが心苦しく、祈る思いで待っていました。
目が覚めたら一緒に食べよう。
と決めて娘の笑顔を心待ちにしていました。
でも、処置が頻回になってきて男梅粒を食べてもいいと許可がおりたころから、椿が「ママは気にせず食べていいよ!」って言ってくれたり、看護師が「お母さんが倒れたらいけんから、しっかり食べてくださいね!」と声をかけてくれたこともあり、罪悪感はやっぱり消えはしなかったけど少しずつ食べるようになっていきました。
体が資本。
私が倒れてしまっては椿が心配するもんね。
しっかり寄り添えるようにしっかり食べよう!
そう言い聞かせて。
母はいつもそばにいてあげることしかできないもどかしさを抱えながら、代わってあげられないなら、せめて少しでも寄り添いたくて…
そうやって母娘、二人三脚でやってきました。
子どもなりの病気との闘いと向き合いかた
まだ産まれたばかりの生後8日目に受けた初めての手術から、娘が生きた14年の間に検査、治療、手術を何度も受けてきました。
幼少期のころまでは「いやだ」「いたい」という意思表示を泣いたり、怒ったり、言葉にしたりして表現してくれていました。
次第に理解が進んでくる小学生高学年のころには、それとは別に「こわい」という感情も加わりました。
知識がついてくるほどに恐怖心は増していきました。
思春期に入ってからは「怒り」の感情も加わりました。
自分に病気があるせいで、健康なみんなはしなくてもいいこと(通院、入院、検査、治療、内服など)を繰り返ししなければならない環境にうんざりしていたのでしょう。
それでも、何度も何度も乗り越えてきました。
娘にとっては『したくなくても生きるために必要なこと』だったので、がんばるしかありませんでした。
でも、そのがんばりは娘にとっては勲章でもあるのだと言うことを伝え続けました。
だから、治療中は悔しくて痛くて泣きさけんだりもするけど、家に帰ると家族に点滴のルートがうまく取れず何度も何度も刺された注射針の痛々しいあとを見せ「ほら見て!椿今日もこんなにがんばったんよ!」と、いつも笑顔で誇らしげに見せていました。
どんなに辛い思い、痛い思いをしても、それを乗り越える度に強い精神力を身につけて生きてきました。
思春期と発達障害
思春期を迎えてからは気持ちの変動、体調の変動とあり、色々と大変でした。
この頃まで気づいてあげられなかった発達障害に関しては、もっと早くに気づいて対処してあげられたら良かったと後悔するところです。
それまでは、性格、個性として捉えるにとどまっていた椿のクセの強さは中学校入学後、徐々に浮き彫りになっていきました。
水分管理、内服薬の問題、塩分の過剰摂取、対人関係、学校の問題…。
病気に関しては本人の体に直結することなので良く話し合って、自分で理解して管理していかなければ解決は難しかったと思います。
学校に関しては、はじめは先生方も協力体制で良好な関係を保てていたと思っていたのですが、過ごしていくほどに歯車が合わなくなってしまいました。
私たちが望む学校という居場所としては「楽しい場所」であってほしかったのですが、椿を苦しめ、家族を悩ませる原因のひとつになってしまいました。
それでも14歳までたくさんの経験をして、しっかり自分の考えを持った一人の女性として最期を迎えた椿には、本当にたくさんのことを経験させてもらいました。
今は感謝しかありません。
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2-9 ①発達障害とは?
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3-1 ①病気と共にある生活とは-1
⑤病気と共にある生活とは-5