第3章3-1③病気と共にある生活とは
大好きな白米!
幼いころは術後に乳糜胸(にゅうびきょう)になり、胸水がたまりやすく、胸水を抜くためのドレーンがずっと脇腹に入ったままで、挿入部や先端が当たって痛くて泣き叫んだ日もありました。
〇乳糜胸(にゅうびきょう)とは
胸管から漏出した乳び(腸管からの脂肪球を含むリンパ球)が胸腔内(肺)に貯留した状態「胸水貯留(きょうすいちょりゅう)」
詳しくは▶︎第2章2-4グレン手術と合併症
心臓や体に負担をかけないように水分制限が長く続いて、空腹から眠れない日や泣きながら眠る日が多くありました。
おしゃぶりをしてごまかす日々。
入院中は眠れない椿を抱っこして、夜中に病棟の廊下を行ったり来たり散歩して寝かしつける日も多くありました。
自宅に帰ってからも夜中にドライブに行く日が続きました。
この頃から『空腹は寝てごまかしながら過ごす!』ということを自然と身につけていきました。
本来なら母乳やミルクを飲んですくすく育つ時期に長く続いた水分制限もあって、標準よりも小さく育ちました。
辛い水分制限の中で処方されていた栄養のあるミルク(MCTミルク)も椿の口には合わなくて飲んでもらえず、やっと飲んでくれたと思ったら嘔吐し、それでも「お医者さんに処方されたから飲ませなければ」と必死になり、嫌がる椿にまた飲むように強要する辛い日々もありました。
離乳食を始めても白米しか食べてくれなくて、他のおかずは口に含もうともせず、無理に食べさせると嘔吐していました。
小皿にもった少量の白米と一口分くらいのおかず1食を1時間くらいかけて食べる日が続きました。
当時は椿が偏食だという事もよくわかっておらず、自宅でひとり娘と向き合う時間、相談する人もいないなか、次の検診まで元気に過ごすために、検診結果が少しでもいいものになるように、しっかり食べさせなければ、と煮詰まっていた日々もありました。
大きくなってからも、調子を崩したときでも、白米ひとすじ!
おもゆ(おかゆの上ずみ液)よりおかゆより、しっかり炊けた白米が椿の好物でした。
食は生きるエネルギー!
偏食は変わらずでしたが、成長とともに少しずつ食べられるものも増えていきました。
幼少期のころ、魚や肉は口の中に何十分も残ったまま、飲み込むことができませんでしたが、加工食品に変えてみると食べることができるようになりました。
本当なら、そのままのものを食べてほしかったのですが、体内に補給できるものを優先した結果、ナゲット、ウィンナー、ハムなどはすすんで食べるようになりました。
お魚も、白身のやわらかいもの、特にタラが食べやすかったようで、タラや鮭を食べるようになりました。
小学生になると給食というありがたい昼食がいただけます。
これは、子どもたちにとっては試練です。
とても良い試練です。
みんなで食べる→楽しい、おいしい、幸せの共有ができる
みんなと同じものを食べる→自分も食べてみようと気持ちが変わる
好き嫌いをして食べなければお腹が空く→お腹を満たすために苦手なものも食べてみる
いろんな効果が期待できるし、実際、椿にとっても効果のある貴重な時間でした。
食べられるものが増えると食に興味がわき、自分の好きな食べ物ができました。
何十分もかけても飲み込めず口の中に残っていたお肉は、椿の大好物になりました。
いつしか「食」は椿の楽しみのひとつになっていたのです。
生きる楽しみランキングがあるとすれば、椿のなかで「食」は1位を争う大切なものになっていたことは間違いないでしょう。
フォンタン術後(3歳)からできた普通?の生活
フォンタン術後の椿はとても元気で、病気だと言わなければ「小さめの女の子」くらいにしか見えませんでした。
おしゃべりが大好きで、いつも買い物に行った先で優しそうな店員さんを見つけるとつかまえて話しを聞いてもらっていました。
週末になるとお出かけ好きなおじいちゃん(私の父)が迎えに来てくれて、おじいちゃんと私と椿の3人で一緒にたくさんお出かけをしました。
おじいちゃんと遠出をして、温泉に入るのが大好きでした。
歩けるようになってからは、室内・屋外関係なくよく転びました。
大きな頭に細い手足でバランスが悪く、転んでおでこに痛々しい大きなたんこぶを何度もつくっている時期がありました。
ワーファリン(血液をサラサラにするお薬)を飲んでいたので、頭を打つと脳に血液がもれていないかを心配され、CT(体の輪切りの画像)を撮ることもありました。
手術や治療などで、寝たきりも多く、食事もまともにとれなかったため、体の成長も遅く、体力もありませんでした。
一般的に「〇ヶ月でこれができるようになる」という行動には追いついていませんでした。
主治医のすすめで1歳になる前からリハビリを受けていたのですが、リハビリの先生いわく、椿はからだをコントロールするのが難しかったようです。
ジャングルジムなどを登る時はどこに手をかけて、どこに足をもっていけばスムーズにのぼることができるのか理解できませんでした。
おりるときも、どこに足をかければいいのか、手をどこにもっていけばいいのかわかっていない様子で、「足を先にそこにおろして、今度はこっちの手をこっちにもってきて…」と声かけをしながらがんばって練習していました。
小さいうちは、体のバランスや足腰が未発達で転ぶのかと思っていましたが、大きくなってからも自分の体をコントロールすることがむずかしいことに変わりはなく、弟と追いかけっこをしていて、たまに盛大に転ぶことがありました。
12歳のときに、お蕎麦屋さんの敷地内の石畳につまづいて転んだことがありました。
その時も、手をつかずに顔面から転び、歯とくちびるを強打し、口から大量の血を流し、足もすりむいてけがをしました。
椿になぜ手をつかなかったのか聞いてみると「だって手が痛いのいやだもん」と答えました。
顔面からこける恐怖心よりも、手の平で全身を支える痛みのほうが怖いと感じたようです。
もしかしたら幼少期から同じ考えだったのでしょうか…
それでも遊具で遊ぶのは大好きな子で、よく公園に行ってすべり台をすべり、大好きなブランコに乗りゆられていました。
すべり台をすべるのは大好きだけど、のぼるのが一苦労。それでもすべる楽しみのためにがんばってのぼりました。
ブランコは自分でこぐのが難しかったのでいつも「おして~!」と頼んでうしろから押してもらっていました。
「もっと~!」と要求が多く、このころから絶叫系好きが見え隠れしていたように思います。
お誕生日やクリスマスには、自宅におばあちゃんを呼んでパーティーを開き、プレゼントをもらって一緒に笑って過ごしました。
自転車に乗せてもらうのが好きで、幼稚園に入る前は私が椿を乗せて、よくサイクリングをして過ごしました。
4歳のころに、14インチのコマつき自転車に乗りはじめ、途中、何度も心が折れながらも休み休み練習し、6歳のころにはコマなしで自転車に乗れるようになりました。
絶叫系の乗り物が好きで遊園地にもよく遊びに行きました。
初めてジェットコースターに乗った日に何度も繰り返し乗るという興奮ぶりを見せました。
でも身長制限があるところが多く、120㎝の壁で悔しくて泣くこともありました。
今でも目に焼きついているのは、弟を横に乗せさっそうとゴーカートを運転する椿の真剣な顔。
この姿を見て、いつか椿の運転する車に乗ってドライブに行ける日を夢見るようになっていました。
「あと5年すれば免許とれるね!」なんて話ながら…
あの時、私も椿の運転するゴーカートの隣に乗せてもらっておけば良かったな、と今でも思います。
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3-1 ①病気と共にある生活とは-1
③病気と共にある生活とは-3