第2章2-11③椿が生きた最期の1日
椿が心臓病だとわかった日から「いつかは…」と思っていた日が来てしまいました。
実感のないまま過ぎていく時間。
忘れられない1日のはじまり。
2月4日 椿が生きた最期の1日
夜中の2時頃、椿のことが気になり、「お茶飲む?」と声をかけるとうなずいたので、お茶をひと口飲みました。
これが最期のお茶になりました。
その後、椿は眠りにつき、私は眠ったり起きたりを繰り返しました。
朝方5時頃、看護師の「椿ちゃん!椿ちゃん!」と呼ぶ声で目が冷めました。
酸素濃度が下がってきて意識レベルが下がっているようでした。
しばらくすると椿が苦しそうにベッドの上でのたうちまわり始めました。
痙攣(けいれん)です。
当直の先生が来てくれて、椿の容態を確認して「お母さん、つばちゃんはよく頑張ったから心臓マッサージもしないし、人工呼吸器も付けないでいいですね?」と確認されたので「はい!」と答えました。
「すぐに主治医を呼びますね。」と言われました。
しばらくして椿は一旦落ち着き、またベッドに横になりました。
それから30分も経たないうちに、本当にすぐ先生方が駆けつけてくださいました。
椿の先天性疾患を初めに診断してくれ、外来も入院中も14年間ずっと椿の成長を診てくれていた先生、主治医や近年椿を受け持ってくれた先生方が次々に椿に声をかけてくれました。
主治医が「家に帰ってもいいし、ここで過ごしてもいいですよ。また決まったら教えて下さい。」と言ってくれました。
ただ、病院内の面会についてはコロナ禍なこともあり、家族は全員入れるけど、他の親族はひとりずつしか通せないと言われました。
できればみんながそばにいてくれている状況で見守ってほしい。
でも椿はもう動きたくないと言うかも知れない。
このまま病院にいたほうが良いのか、予定通り家に帰ったほうが良いのか、この時は決められませんでした。
「ご家族を呼びますか?」と看護師が声をかけてくれ、すぐに主人に連絡しましたが、いつも夜中や朝方に出勤するため、この日ももう仕事に出ていました。
「積荷を現場に降ろしてから向かう」という話になりました。
息子は、昨日救急車が自宅に来たことで心配して連絡をくれたご近所の友人家族が一晩預かってくれていました。
その友人に電話して事情を話すと、快くすぐに病院まで連れて来てくれました。
息子が病院の病棟の中に入ったのはこれが初めてです。
「楓くん来てくれたよー!」と耳元で声をかけると椿がうなずいたように見えました。
椿の大好きな意味がわかると怖い話を耳元で読んで聞かせると、口元が少し笑いました。
看護師の提案で、水で溶いた男梅粒を綿棒につけて、息子とふたりで椿の唇に塗ってあげました。
家族のように仲良くしてくれた友人達が送ってくれた動画を流しました。
「つばきちゃーん!」と何度も呼んでくれる皆の声が届いて、またあの時のように奇跡の回復をしてくれないかと願いも込めて3人で手を握って観ました。
けいれんと母の決断
そうして過ごしていると、突然2度目の痙攣(けいれん)がありました。
ナースコールをしても反応がないので、部屋から飛び出して「誰か!助けてください!」と叫びました。
看護師と先生が来て対応してくれ、しばらくすると落ち着きました。
「痙攣(けいれん)は脳に酸素が行き渡らないため起きるから、椿ちゃんは苦しくないよ」と教えてもらいましたが不安でしかたがありませんでした。
息子も初めて見る姉の痙攣(けいれん)に怯え、一人部屋の端っこに小さくなっていました。
看護師さんが「怖かったね、大丈夫だよ。」と抱きしめてくれました。
「ごめんね、楓くんも怖かったよね。椿頑張ってくれてるからね。」と3人で手を繋ぎました。
7時半頃、訪問診療の先生も仕事前に駆けつけてくれました。
「家に帰ってもいいし、ここで過ごしてもいいし、どちらでも大丈夫なように対応しますからね。」
「つばちゃんまた来るよ!」と言って仕事に向かわれました。
8時頃また痙攣(けいれん)がありました。
椿は最期の一踏ん張り頑張ってくれている。
病院にいては椿に会いたい人に会ってもらえない。
『出来れば最期は家族・親族に囲まれて旅立ってほしい』そう思い、主治医に「先生、やっぱり家に帰ります!」と言いました。
決死の移動
今日はもともと私の妹が午前中に自宅に来てくれる予定だったので「病院に迎えに来て家に連れて帰ってほしい」とお願いしました。
「9時には病院に着く」と先生に伝え、家に移動する準備をしてもらいました。
9時前に訪問看護師も駆けつけてくれました。
はじめは訪問看護師が帰りの車に同乗してくれる予定でしたが『訪問看護師は医師の指示がないと処置出来ない』ということで、倉敷中央病院の主治医が自宅まで同乗してくれる事になりました。
出発前、親族に「これから帰るから家に来てほしい」と連絡を入れました。
9:30頃病室から出発するために、このとき勤務していた手の空いた看護師が総出でパーテーションで区切られたストレッチャーに椿を乗せてくれました。
小児科病棟がある5階から妹の車が停まっている1階の車いす専用の駐車場まで、みんなが付いて来てくれて一緒に車に乗せてくれて、最期まで手を振り、お見送りしてくれました。
これが14年間お世話になった病院での最期の時間になりました。
お世話になった先生方、看護師、保育士、心理士、ソーシャルワーカー、薬剤師など、全員とまではいかなかったけど、この2日間で逢えたね。
最期に挨拶できたね。
律儀な椿らしいね。
妹が運転、助手席に息子が乗り、後部座席に主治医と私が乗り、椿の上半身を主治医が、下半身を私が抱く形で乗り込みました。
道中、主治医が椿の呼吸に合わせて酸素を送りながらモルヒネの量を調整してくれました。
息子は朝早く起きて病院に来て初めての経験で気を張って疲れたようで、車に乗ってすぐ眠りにつきました。
病院から自宅までは40分近くかかります。
病院を出て15分くらい走ったところで椿の呼吸が弱くなりました。
そのあと大きく深呼吸をして、持ち直しました。
そしてまた大きく深呼吸を2回して…呼吸が止まりました。
その後も主治医が酸素を椿の呼吸のペースに合わせて送ってくれていたのですが、酸素ボンベが空になってしまい、酸素を送ることもできなくなりました。
30分くらい走った踏切の手前で口と鼻から吐物が出てきました。
「よく頑張ったね。ごめんね、最期に頑張らせてしまって…。」と声をかけ、冷たくならないように家に着くまで椿のからだをさすりながら帰りました。
無言の帰宅
家に着くと訪問薬局の方が家に帰ってすぐ点滴ができるようにずっと待ってくれていたのだと気が付きましたが、挨拶もできず。
訪問看護師が別便で追いかけてくれ、すぐに到着し、私が乗っている方のドアを開けたので、椿を抱えたまま「もう…」とだけ伝えるのが精一杯でした。
訪問看護師は「うん。」と返事をして椿を抱えて「つばちゃん!がんばったな!家に着いたよ!」と家に連れて帰ってくれました。
目が覚め、運ばれた姉を見て「椿どしたん?」と聞く息子に「もう疲れちゃったって。椿、お空にいっちゃったよ」と伝え、ベッドに寝ている椿と息子と私、3人一緒に手を握りました。
親族に「ごめん。間に合わなかった」と伝え、椿のそばで主治医と訪問看護師と妹でみんなが来てくれるのを待ちました。
待っている間、主治医が初めて椿と逢った日のことを話してくれました。
「幼児期に救急にしんどそうにやって来たつばちゃんを診察したのが初めましてだったんです。」と。
私と椿の認識では主治医とは小学5年生の時に初めて逢い、そこからの付き合いだと思っていたけど、そんなに前に診てくれていて、それをちゃんと覚えていてくれたことに感動しました。
しばらくすると次々に親族が椿に会いに来てくれました。
旦那さんも帰ってきました。
まだ温かい椿に触れてくれました。
「よく頑張ったな」「もう痛くないし、苦しくないな。楽になったんじゃな…」と声をかけてくれました。
本当は椿の耳でみんなの声を聴いて感じてもらいたかったんだけど…間に合わなくてごめんね。
11時頃、訪問診療の先生が到着し、最期の診察をしてくれました。
その後、訪問診療の先生は隣の部屋で死亡診断書を書いてくれました。
訪問診療で椿に関わってくれた事務員2人、看護師1人も来てくれてずっと立ったまま泣いてくれていて、まだ出会って間もないけど、椿と家族と濃厚な時間を過ごしてくれて、椿の良き理解者として、想ってくれているのだと伝わってきました。
【関連記事】
2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
2-11 ①最期の14日間-1
③椿の生きた最期の1日