第3章3-3④医療との関わり
通院はふたつの病院へ
【出典:岡山大学病院】
退院後、術後外来として岡山大学病院へ月に1度経過観察へ行きました。
術後外来は術後1ヶ月、半年、1年、と間隔を空けて通いました。
当時名医とされていた佐野教授の外来受診は、予約数が多いことと緊急手術が入るため、1日を外来で過ごす覚悟で行かなければなりませんでした。
朝10時に予約していても診察は15時くらいがあたりまえです。
診察はほんの数分で終わりますが、その後の会計までの時間も1時間以上かかりました。
一番遅い時は、帰りが通常外来も閉まっている21時になる日もありました。
初めて経験したときは病院の待ち時間にびっくりしましたが、段々と慣れていき、そんな外来も椿とふたりでのんびりと楽しめるようになりました。
術後1ヶ月目の外来で経過良好だったので引き継ぎで月に一度、倉敷中央病院の外来へ行くようになりました。
【出典:公益財団法人大原記念倉敷中央医療機構 倉敷中央病院】
倉敷中央病院での診察時間も岡山大学病院ほどではありませんが、結構かかります。
朝9時ごろに着いて、帰るのはいつも14時くらいになるので病院の日は幼稚園や学校をお休みして通院していました。
外来へ行くと毎回採血をして身長、体重、酸素濃度を測ります。
採血は毎日飲む内服薬の量を決めるための重要な資料になります。
だから毎回必要になります。
赤ちゃんのころは泣くこともありましたが、幼児のときから針を刺されてもへっちゃらと言わんばかりに笑って採血を受けていました。
体調によって、レントゲン、心電図、心エコーを受ける日もありました。
赤ちゃんの時はねんねの時期でじっとしていられたのでよかったのですが、幼児期は検査が大変でした。
心電図はじっとしていないといけないのですが、手足を動かしてしまってじっとすることが難しく、データをとるためのたった10秒のためにすごく時間がかかりました。
心エコーは機械の滑りを良くするためにぬるぬるする液体をからだに塗られるのが気持ち悪いと怒ったり、くすぐったいと笑ってしまったり大変でした。
でも、どの担当さんも上手に椿の機嫌をとってくれ、DVDを観せてくれたり、お話して機嫌をとってくれたりして、なんとか検査をすることができていました。
特に倉敷中央病院の外来へは産まれてから14年間ずっと、最低でも月に1度は通っていたので関わってくれていた医療従事者にはすっかり覚えてもらい、良くしてもらっていました。
弟が産まれてからは3人で外来受診に行くようになりました。
弟が産まれたばかりのころからずっと一緒に連れて行っていたので、馴染みの看護師は「あっという間に大きくなるなぁ。」と弟の成長も一緒に感じてくれて、椿がお姉ちゃんになっていく過程も一緒に見守ってくれました。
入院病棟での過ごし方
新生児の時はNICU(新生児特定集中治療室)で入院生活を過ごしましたが、原則としてNICU(新生児特定集中治療室)で過ごせる新生児は生後1ヶ月までです。
初めて小児の入院病棟へ行ったのは、生後2ヶ月のころチアノーゼがひどくなって入院したときでした。
看護師も先生も明るく元気で優しい雰囲気で、良い印象を受けました。
でも、人見知りな私は初めての付き添い入院に苦戦しました。
重症患者は個室対応ですが、重症患者でない限り基本的に3人床か4人床の大部屋に入ります。
カーテン1枚で仕切られたベッド1床と、小さな冷蔵庫のついた消灯台1台とテレビ1台、小さなロッカーのみの空間がプライベートゾーンで、トイレ、洗面所、電子レンジ、給湯器などは共有です。
カーテン越しに聞こえる会話や物音に気をつかう生活がスタートしました。
入院当初、椿は母乳とミルクを飲んでいたのですが、ナースコールでミルクを頼むと、指定した量のできあがったミルクをベッドまで持ってきてくれます。
温める時間が必要なため、頼んでからベッドに届くまでに時間がかかり20分ほどは待たなくてはいけなくて、この待ち時間に椿が泣き叫ぶのが結構なストレスになりました。
赤ちゃんは夜中でもお構いなしですから、寝ている子どもやお母さんを起こしてしまうこともありました。
お互い様とはいえ、初めての育児に初めての入院で、脇に変な汗をかくほど申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
当時2ヶ月の椿はしゃべることもなく、人見知りの私はカーテン越しの気配を感じて椿に母親らしい声かけもできず、基本的に無言で過ごしました。
他の人が検査などで部屋から出て行ったあとの、限られた時間だけが唯一気の休まるひとときでした。
はじめのうちはこの時間だけ椿と会話を楽しんで過ごしました。
入院しはじめの1週間は気を張ってがんばれたのですが、2週目に突入すると結構苦痛になってきて、肌荒れがはじまったり、胃が痛くなったりもしました。
3週目になってくると開き直れるのか、不思議と無理なく過ごせるようになっていきました。
環境に慣れるということは、子どもだけでなく大人も大変です。
入院の度に環境(ベッドや他の入院患者)が変わるので、そのたびにからだや精神が慣れていく感じでした。
真夜中に急遽入院してくる患者もいて、ベッドの準備や入院の説明など、慌ただしくしている様子を感じて目が覚めてしまって眠れないことも多々ありました。
カーテン越しのプライベートは守られたり、守られなかったりしました。
今は完全にカーテンを締め切っていることが多いですが、当時は結構オープンに開け放たれている親子がいたり、締めていても「開けてお話をしよう!」「一緒に遊ぼう!」と誘ってきてくれる子がいたりしました。
その時々で楽しんだり、しんどかったり、色々ありました。
椿がコミュニケーションを取れる年齢になってきた頃には年の近い子と一緒に遊んだりして、楽しんで入院生活を送ることができていたと思います。
それもこれも、看護師の支えあってこそだったと思います。
明るく気さくな看護師が多く、椿は「姫」とあだ名をつけてもらい、みんなに愛されている様子でした。
さらに、とても可愛がってくれる看護師が数名いて、看護の時間以外にも空き時間に部屋に遊びに来ては「ちゅばき~!」と抱きしめて愛をくれました。
私ともしっかりコミュニケーションをとってくれ難病児の育児の不安も、気になることがあればすぐ相談できました。
自分の用事(洗濯・シャワー・買い物)がある時は安心して椿を任せることができました。
椿は人見知りもなく当時から堂々としている子だったので、よくナースステーションに連れて行って可愛がってもらっていました。
そのお陰もあってか、病院機器の音が鳴り響く中でも熟睡するという驚異の精神力を身に付け、のび太くん並みにどこでも3秒で眠れる子に育ちました。たくましい限りです。
幼少期は保育士がついてくれて1日30分ほど一緒に遊んでくれました。
保育士が来ると満面の笑みでお迎えして遊んでもらっていました。
看護学生にもたくさんついてもらい、お話好きで気分屋な椿にも優しく接してくれ、楽しく遊んでもらいました。
他の子に看護学生がついているのに、自分にはついてもらっていないときは「なんで椿のところには学生さん来んの?椿にも来てほしい!」と怒るくらいでした。
病室でずっといなければならない子どもたちにとっては、優しくあそんでくれる学生さんは大歓迎な存在なのです。
辛い入院生活の中、先生、看護師、保育士、看護学生、同じ病室のおともだちとのふれあいの時間が椿の楽しみでした。
頻回に入院していた頃から数年経って久しぶりに入院すると、看護師の異動があったり、病棟の改装があったりしてその都度雰囲気は変わるし、制度も変わりました。
それでも、椿が赤ちゃんの頃から診てくれている先生や看護師もいてくれるので、外来や病棟で会うと「椿ちゃん!大きくなったなぁ」と、覚えていて声をかけてくれました。
さすがに椿は、赤ちゃんだった頃のことは覚えてなくて、いつも声をかけてくれてもキョトンとしていましたが、親戚の様に椿を可愛がってくれる方ばかりで、私はとても温かい気持ちに包まれました。
本当にたくさんの先生、看護師、保育士、リハビリの先生、他の入院患者さんたちとの思い出が詰まった場所です。
私たちにとっては人生の半分をここで過ごした、第2の家のような場所でもありました。
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3-3 ①医療との関わり
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