第3章3-3②医療との関わり
心臓病の発覚
生後8日目の夕方、自宅のベッドで寝転んでいた椿から「ひゅーひゅー」と変な、苦しそうな呼吸音が聞こえてきました。
見ると、椿の舌が落ち込み、顔色は青白く、唇は紫色、どんどん悪くなっていきます。
初めての子育てで、これが乳幼児に見られるなんの症状なのかもわからず、パニックになりました。
救急車を呼んでいいのかもわかりませんでした。
でも、ただごとではなさそうなのは理解できました。
とりあえず、「なにかあったら連絡してね」と言っていた助産院に電話をし、症状を伝えました。
すると、こんなに苦しそうなのにミルクを飲ませるように指示がありました。
(このとき、助産院では産気づいた患者さんの対応中で助産師も焦っている様子でした)
ミルクなんて絶対飲める状況ではないのですが、「とりあえずやってみて!」と言う助産師の言葉にしたがって震える手でミルクを作り、舌が落ち込んでいる椿の口に乳首をつっこんでみました。
けれども、やっぱり椿はそれに吸いつく様子もなく、呼吸がどんどん浅くなっているように感じました。
涙をこらえながら、もう一度助産師に電話すると直接見せに来るように言われ、すぐに助産院に連れて行きました。
(このときには出産も無事に終わって「今ならみれるから」と言ってくれました)
手足が青紫になり苦しんでいる椿を抱えて助産師に見てもらうと、すぐに倉敷中央病院の救急外来に行くように言われました。
倉敷中央病院には助産師から連絡を入れると言ってくれたのでお任せしました。
「救急車を呼んでも、もう来てもらうまでの時間が待てないから、自分で行ったほうが早いよ!」と助産師に言われて、そこから30分はかかる病院に父親が運転する車で渋滞を切り抜けて急いで向かいました。
倉敷中央病院の救急外来に行ったことがなかった私たちは迷いながら進み、なんとか救急外来に着き、連絡を入れておいてくれた助産師のお陰でスムーズに案内してもらえ、手際よく椿だけ奥の部屋に連れて行かれました。
私たちは、その部屋の前で祈りながら待ちました。
このときの記憶は正直あまりありません。
椿を処置してもらっている部屋のとびらが倉庫のとびらのように大きかったような記憶があります。
そんなはずはないのに、なんだか大きなひんやりしたまっしろな空間にとても長い時間いた感覚でした。
処置室から出てきた先生に「お母さん、驚くと思うけど、娘さんは心臓病です。急いで手術しないと間に合いません。これから手術をしに、すぐに救急車で岡山大学病院に向かいます。」と言われました。
「お母さん、気づいて連れてきてくれてありがとう。」と言ってくださった先生の言葉に救われたのを覚えています。
その後14年間、外来で診察してくれることになる先生との出会いでした。
椿は生後8日目に呼吸困難になって生死をさまよいました。
そしてこの時はじめて椿が先天性心疾患だということが判明したのです。
どうして生後8日目まで気がつかなかったの?
どうしてこの時まで関わってくれた先生方は、だれも椿が心臓病だと気がつかなかったのか…不思議でなりませんでした。
先生の説明では、椿は胎児のときにすでに「心臓のつくり」が違っていたそうです。
普通に妊婦さんとして検診も受けてきたし、心エコーもしてもらっていたけど、心音の乱れや雑音などの指摘もなく、なにも引っかかることはありませんでした。
このころは3D画像でエコー写真を1枚だけ撮ってくれ、ビデオテープにエコーの様子を録画してくれた、まだそんな時代でした。
産婦人科や助産院ではなく、大きな病院へ通っていれば、前もって発見することができていたのか…今となってはもうわかりませんが。
この日まで普通に過ごしていたので、このとき先生に診断されるまでは、私もこの子が心臓病を抱えていたなんて思いもしませんでした。
もし、お腹の中にいる時に気がついていたとしたら…出産する病院を変えて、出生後すぐ治療してもらえたかもしれません。
呼吸苦になって、生死を彷徨うことはなかったかもしれません。
もっと楽に乗り切れる準備ができていたのかもしれません。
私たちも心の準備ができて、前もって知識をつけることができたのかもしれません。
椿の出産は今から16年前のことです。
病気の説明のところにも書いたように、現代では妊婦の時から心臓病を見つけやすくなっていて、早期治療を受ける体制が整っているようです。
▶【第2章2-3椿の病気解説 先天性心疾患の早期発見が可能に】
緊急手術で繋がった椿の命~医療連携~
そして緊急を要する容態のため救急車で岡山大学病院に向かいました。
岡山大学病院に着いたのは夜の22時でした。
バタバタと書類の説明がはじまり、椿は手術の準備に入りました。
書類にサインをしないと手術に取りかかれないため、一刻を争う状況に先生も急いでいる様子で、流れるように説明を聞きました。
初めて聞く心臓病の病名や手術の内容は全然頭に入ってきませんでした。
一刻を争う危険な状態なのだということで焦り、動揺していたのです。
まさか、娘のために書く初めてのサインが手術の同意書になるなんて、思いもしていなかった私たち。
意味もわからずサインをしなければならない状況に、頭が追いつかないまま…
父親が震える手を抑えながら何枚もある同意書にサインをしていきました。
やっと書きあがった同意書類を持って、先生は手術室に走って行きました。
「椿をよろしくお願いします!」と深々と頭を下げて見送りました。
そのあと案内された、初めて入った家族控室は、薄暗く静かな空間でした。
病室にあるものと同じシングルサイズのベッドが置かれていて、その上には布団も何もない状態でした。
10月の23時ごろ、少しひんやりとした部屋で、一睡もできるはずもなく、なにもしてやることもできないもどかしさや、「どうして椿が」という思いを駆け巡らせ、現実を飲み込もうとしても飲み込むことができずに、ただ椿の無事を祈って、涙を流しながら過ごしました。
手術が終わったと連絡が入ったのは朝方4時ごろで、面会が許されたのは朝6時ごろでした。
椿の手術は無事に終わり、「あと1時間遅かったら間に合わなかった。」と先生に言われたときは、呼吸困難になってからこの1日に椿に関わってくれたたくさんの医療従事者たちに心から感謝しました。
無知な私たちだけではどうすることもできなかった。
危険な状態だとわかっていても何もしてあげられなかった。
急な電話にも対応してくれて救急に行くように指示して手配してくれた助産師。
助産師からの引継ぎもありスムーズに対応してくれた倉敷中央病院の看護師や先生方。
倉敷中央病院からの引継ぎで手術の準備をして待っていてくれ、夜通し手術をしてくれた岡山大学病院の看護師や先生方。
私たちが住んでいたのが岡山県だったことも幸いしていて、岡山大学病院に小児の心臓病の名医といわれている佐野教授がいて、椿の手術にも執刀医として加わってくださったこと。
医療従事者の連携がなかったら助かっていなかったかもしれない椿の命が繋がったことに感謝し、医療の偉大さを感じた1日でした。
その後も通院、入院は倉敷中央病院で、手術は岡山大学病院で、病院同士しっかり連携を取り合ってスムーズに対応して下さいました。
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3-3 ①医療との関わり
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