第3章3-2④闘病と家族の在り方
中学の進学先と再婚
そんな生活を乗り越え、少し落ち着いてきた頃、椿の進学先に悩みました。
3つ上げた候補のうち椿が自分で通いたい学校を決めました。
その進学先は、当時お付き合いして助けてもらっていた方の地域の学校でした。
これまで、椿のかかりつけ医の倉敷中央病院から車で15分で行けるコーポに住んでいたから迅速に対応できていた通院や入院。
椿の進学先候補に入れるまでは、彼の家がある岡山市北区の端へ転居することは考えていませんでした。
だから、正直とても悩みました。
でも、当時私の仕事も不安定な時期で、続けられるかわからない状態でした。
椿の進学先、仕事、住居、金銭面、パートナー…
いろんなことを含めた上で、通院のリスクは多少あるけれど、これまでもだいたい40分から1時間はかかる場所に住んできた私たち。
きっと、やってやれないことはない。
と、人生の一大決心をしたのです。
子どもたちに「しんくんにお父さんになってもらおうと思うけど、どう思う?正直な気持ちを聞かせてほしい。」
と話をすると
「え!?まじ!?
しんくんがお父さんになってくれるの!?
やったぁーーー!!!」
とふたりしておお喜び。
こうして、子どもたちの同意のもと足早に再婚、引っ越しをし、新しい環境へ移りました。
「父親」を求めていた子どもたちは、彼と新しい家族になれること、新しい家に住めることをとても喜びました。
私も、協力者がいてくれる心強さに心底安心し、こんな私たちと家族になってくれた彼に感謝しました。
自立を望んだ母子分離
新しい家族と新しい環境、期待に胸を膨らませていた中学校生活は、思い描いていたものとは違い、過酷なものになりました。
それに並行して椿の病状も徐々に悪化していきました。
引っ越した頃は金曜の朝に入院して腹水を抜いてもらって鎮静から目が覚めて問題なければ夕方には帰れるように、週に1度の日帰り入院で調整してくれていました。
こうすれば、息子が保育園に行っている間に治療を済ませることができて息子のお迎えに間に合うのです。
その後、点滴の補充が必要になり週に1度、金曜の朝から土曜のお昼までの1泊入院に変わりました。
このスタイルになってからは、椿だけが病院にお泊りをし、夜間の椿のお世話は看護師に任せていました。
夕方、時間が許されるギリギリまで病院にいて、息子の保育園の預かり時間ギリギリにお迎えに行き、夜は自宅で過ごし、翌朝保育園に息子を送ってから椿のところへ行く生活が定着していました。
椿ももう中学生になったし、私の仕事がライターから現場を回る仕事に変更になったこともあり、容態が安定している日は、息子を送ったあと仕事へ行き14時頃から夕方まで椿の面会に行く生活を送れるようになっていました。
それまで医療従事者と相談しながら組み立ててきた闘病生活のベースがあったので、病院側も引き続き理解して対応してくれました。
旦那さんは深夜から仕事に出ることが多く、休みも取りづらい仕事なので、帰宅後に自宅でのサポートを中心に息子の面倒や家事を協力的にこなしてくれました。
椿が中学生になってから、私は椿に自立してほしいと望んでいました。
なるべく母子分離ができる環境を整えたいと考えていました。
私がいなくても成り立つ環境
それはこれまでなかなか確立できずにいた問題でした。
なにより、私自身が椿のそばにいてやりたいという想いがあったので、そういうことを知らずに考えずにやってきました。
きょうだい児の問題、母子家庭の問題、子どもの自立心、難病児家族の社会的孤立問題、難病児の家族の就労問題…
いろんな側面から考えなければならない問題だと感じるようになっていました。
中学1年生の10月から入ってくれた訪問診療、訪問看護、訪問薬局の助けもあり、「外で生きていくこと」を一緒に考えてくれる支援者ができたことで、前向きに考えることができるようになっていきました。
新しい環境で歩んだ最期
順調にいっているようで、椿の身体は着実に蝕まれていました。
だんだん椿の調子が悪くなってからは、入院が不定期に増え、私が病院から帰る時間も遅くなっていきました。
保育園の迎えが18時(延長19時)までなので、間に合わない日はおばあちゃん(旦那さんのお母さん)や親族(旦那さんのお兄さん家族やおじいちゃん)に頼めるようにシフトして協力してもらっていました。
特に、2度目の余命宣告を受けてからの1ヶ月半ほどは、私は椿に付きっきりになりました。
そのころ息子は小学1年で、日中は学校へ、夕方は学童へ通っていました。
朝も夜もおばあちゃんに任せることが多くなりました。
どうしてものときは、おばあちゃんに泊り込みでお願いする日もありました。
息子はまだ小学1年生で不安なこともあったと思います。
でも、これまでの経験もあるし、がんばっているお姉ちゃんをずっと一番近くで見てきた息子。
辛抱強く一緒にがんばってくれ、椿が良くなるようにサンタさんへお手紙を書いてくれる優しい子に育ってくれていました。
それに、これまで息子に関わってくれたみなさんが優しくしてくれたお陰で息子もがんばれたのだと思います。
まだ再婚して間もなかったのですが、こちらのおばあちゃんも、おじいちゃんも、旦那さんの兄弟家族も、近くに住んでいて積極的に協力してくれました。
小学校の先生も、学童の先生も、近所の友人家族も、登校班のおばちゃんも、姉の病気のことは知ってくれていたので応援し、支えてくれていました。
みんなの理解、助けがあったからこそ、私たちは最期まで闘病生活を走り抜けることができました。
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3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
④闘病と家族の在り方