第3章3-2③闘病と家族の在り方
家庭環境の変化
椿が産まれる前から不安定に転々と移住を繰り返してきた私たちでしたが、ここで更に大きく環境が変わりました。
難病を抱えて生きていかなければならない娘から父親を奪ってしまうことはできればしたくなかったので、色々ありながらも10年間寄り添ってきましたが…30歳の節目。
自分の精神と体調が崩れ始め、子どもたちを守っていくためにも離婚を決断しました。
そして、椿が小学4年生の夏休みに離婚が成立しました。
父親とはその後も2ヶ月に1回、1泊のお泊まりで交流を続けました。
離婚をしたとしても、彼が子どもたちの父親である事実は変わりません。
子どもたちが「会いたい」と言ったときには会える環境を整えていたかったのです。
離れても子どもたちの父親として誇れるように生きてほしいと約束をしました。
離婚後は私の実家に帰って過ごしていたのですが、椿には環境が合わず、原因不明の発疹と微熱が出ることが多くなっていきました。
本当は実家にいて父や妹に協力してもらいながら育児をする方が良いとは思ったのですが、椿の体調を考え実家を出て3人で暮らすことにしました。
3人でも暮らしやすいように倉敷中央病院の近くで物件を探しました。
病院から車で10分くらいで通える距離になり、通院がとても楽になりました。
この頃息子は3歳になっていて、近くの保育園を探したけどどこも一杯で、各園に電話で事情を説明(ひとり親・姉が病気で入院しがち)して協力をあおごうと思ったのですが、「点数で決まりますので…」という返答ばかり。
私の就業時間が9:00~16:00だったこともあり、点数が低いため保育園に通うのは難しいと言われました。
保健師の勧めで、預かり保育付き3年保育の幼稚園に残り1名の枠に駆け込み入園させてもらえました。
周囲の理解と協力
朝9:00〜14:00は幼稚園の普通保育ですが、それ以外の朝8:00~9:00と14:00~18:00の預かり保育を利用していました。
椿の処置の関係で病院を出る時間が遅くなる日も多く、息子のお迎えが18時を過ぎることが度々ありました。
預かりの時間を過ぎてしまうことに毎回申し訳なく思いながら電話連絡を入れると「大丈夫ですよ。お気をつけて来てくださいね。」と温かく対応してくれました。
幼稚園の先生方はとても理解があり、いつも味方でいてくれて助かりました。
だんだんと椿の調子が崩れ始めた冬頃、頻繁(ひんぱん)に入院するようになっていきました。
病院の方にも家庭の事情は全て話していたので、私たちの希望になるべく寄り添った対応をしてくださいました。
救急で診察してもらって入院するように言われた場合も、娘の容態に少し余裕がありそうな時は一旦家に帰り、息子を預ける準備を整えてから次の日入院するようにさせてもらっていました。
容態が悪い急遽入院の時は、息子は救急のベッドで待機させてもらい、おじいちゃんか叔母(私の妹)のどちらかにお迎えを頼みました。
病院や自宅近くまで迎えに来てもらって、息子を預けてから病棟に上がりました。
長期入院時の私の生活サイクルは基本的に椿の入院の付き添いでしたが、朝6:00~9:00の3時間ほど抜けさせてもらいました。
その間に自宅に帰り、息子のお弁当を用意し、おじいちゃんが仕事に行く時間(am6:00頃)に家に送ってきてもらった息子と、幼稚園の準備(お弁当)、家事、病院の準備をし、息子を幼稚園に送って、買い物を済ませ病院に戻る生活をしていました。
幼稚園に行った息子はおじいちゃんか叔母が仕事帰りに幼稚園に迎えに行き、実家に連れて帰ってもらいお泊りして、また朝おじいちゃんに家まで連れてきてもらうという生活をしていました。
こうすることで、1日の間に椿との時間も息子との時間も過ごすことが出来ました。
余命宣告を受けた椿が少し回復してきた頃は、長期入院のとき、椿の容態がある程度安定している夜間は、椿を看護師に任せて自宅で息子と過ごせるようになりました。
9:00~17:30までは病院で椿と過ごし、18:00~翌朝8:30までは息子と過ごしました。
私たちの家庭環境を理解して、応援、協力してくれた医療従事者の方々と、親族には感謝してもしきれません。
そして、それぞれひとりの時間を過ごしながらも、互いに思いやりを持って共に闘病生活を送ってくれた子どもたち2人にも感謝の気持ちでいっぱいです。
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3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
③闘病と家族の在り方