第2章2-8①発達障害発覚までの経緯-1
難病の治療が続くなか、家庭や学校生活において起こる問題が浮き彫りになっていきました。
特に中学校生活では多くの困難と向き合うことになりました。
『病気でもみんなと同じ環境で生活したい』という思いで選んだ地域の中学校でしたが、
少しずつ「できないこと」が目立つようになっていきました。
学校へ行けば怒られるし、勉強はついていけないし、楽しくないから行きたくない…
家庭内で起こる自由な行動が原因で家族とも喧嘩みたいに…
発達障害の発覚
2020年3月下旬から新型コロナウイルスが猛威をふるい、椿の通っていた中学校も影響を受け休校になりました。
学校が再開して少し経った頃の2020年9月(中学2年生14歳)に、
発達障害ADHD(注意欠損)とASD(自閉症スペクトラム・アスペルガー症候群)の診断がつきました。
この発達障害の発覚は家族にとって重要なとても意味のあることでした。
発達障害発覚までの経緯-1
1.中学校入学
娘が中学1年生になる前、腹水の治療方針が落ち着き、週に1回の入院というペースができていました。
小学校から中学校に上がるにあたり、入学先として3つの選択肢を用意しました。
(細かい詳細は第3章でお話します)
入学前に各中学校に連絡を取り病気の事情を話し、下見をさせてもらいました。
3つを見学した後、娘が行きたいと選んだのは岡山市の中学校でした。
当時病院の近くの倉敷市内に住んでいたため、岡山市の市教委と学校に娘と一緒に直接お伺いし、
病気の事と本人の気持ちを事前に説明して、ご理解いただいたうえで娘が希望した岡山市の中学校へ入学の話に進みました。
小学生のうちは、先生も優しかったし色々と融通を効かせて対応してくれました。
勉強は授業を受ける時間が少なかったこともあり、プリントの提出もあまりできておらず、
テストも受けられないことが多々ありました。
そのため学力も中学レベルについていくことは難しいとわかっていました。
それでも普通の中学校へ通いたいと希望したのは、
「同年代の子どもたちと一緒に過ごしたい」という気持ちが大きかったからです。
親としても、勉学よりも人と接する機会を多く持つこと、みんなの中に入れてもらっていろんな経験をすること、
友人たちと普通の学生生活を過ごす中でたくさんの学びがあると考えての選択でした。
中学校側には、そういったことも含めて事前に報告・相談して「なるべく本人のペースで通いたい」と伝え、
学校全体に共有してもらうため、書面に注意事項や、希望、思いをまとめてお渡ししました。
ただ、その話し合いの場に応じてくださったのは教頭先生のみで、話をしているなかで少しの違和感を覚えました。
小学校で対応していただいていたように
「体育はあまり参加できないので、休憩の時間としてなるべく見学させてほしい」と希望を出しました。
すると
『休憩する部屋は用意できません。(保健室は他のしんどい生徒が使う、相談室は不登校児が使うため)
授業に参加しないと単位が取れませんので、見学という形で構いませんので参加してください。』と言われました。
「単位とか成績は正直、十分にできないと思っているので、なるべく無理のないようにしたいのですが…」
とお伝えしたのですが、『単位・成績』を気にされている印象はありました。
それでも病気であることは理解してもらい
『ご本人さんの意志が決まっていて、うちに通えるのであればこちらは問題ありません。』
とお返事をいただき、入学する運びになりました。
少しの違和感を感じながら、教頭先生にわかってもらえなくても通っているうちに
本人の様子を見てもらいながら他の先生と話し合いをして環境を作っていけるだろう…と簡単に考えてしまいました。
そして、娘が希望した岡山市の中学校へ入学するため、
引っ越しの準備や色々な手続きを急ピッチで進め無事入学することができました。
通いはじめのころは、付き添いで廊下から授業参観させていただいたり、
先生と打ち合わせをしたり、細かに対応してくださって順調な中学校生活がスタートしました。
中学生になったこともあり、ほかの子どもたちのことも配慮して、
親の介入はなるべく控え本人の自立を応援したい、本人と先生で相談して進めてほしい、と介入を控えるようにしました。
時間が経過する毎に問題が起き、少しずつ学校側と行き違いが増えていきました。
その都度相談して解決するように試みましたが、
だんだんと本人と家族が望んでいたようなゆるやかな学校生活から離れていきました。
2.気づき
中学1年生が始まって学校生活を送っていくうちに「できていないこと」が学校でも家庭でも目立つようになっていきました。
【中学校生活】
・プリントを持って帰らない、提出しない
・宿題を「したくないから」とかくす、持って帰らない
・準備ができていない(わざと持っていかない)
・時間の管理、把握をしようとしない
・先生、生徒との関わりがうまくできない
【家庭】
・内服薬を飲んだふりをしてかくす、飲まない
・水分制限を守らずかくれて摂取(+700㏄/1日)
・塩分(調味料:塩・塩コショウ・コンソメ)の過剰摂取
・基本的な身だしなみをしようとしない(歯磨き・髪の手入れ・衣類の着脱もお風呂もめんどうで避ける)
・片付け、整理整頓をしようとしない(ごみや脱いだ服などをそのままにする、どこかに突っ込む)
↓
何度も同じことで注意される
次の日にはリセットされている感覚
学校で配られたプリントをため込むことは小学1年生のころからありました。
「今日はプリントないの?」と毎日声をかけるようにしていたのですが、
なかなか持って帰ってきてくれず、私が教室に入ったときに椿の机の引き出しからたまったプリントを持って帰ることもありました。
そのことは中学校にも事前に相談し、
「持って帰るように声掛け、週末などに机の中に残っていないか一緒に確認してほしい」
と伝えていましたがなかなか協力してもらえず、結局入院などで私が椿の代わりに学校に荷物を取りに行ったり、
懇談のときなどに机の中や教科書の間に挟まった大量のプリントがまとめて出てきて持ち帰ることが続きました。
学校の準備や宿題はなるべく本人が自主的にできるように、家庭では声掛けだけをして見守るようにしていました。
1教科分のプリントと英語のワーク、予習程度はしている様子はありましたが、
それ以外のワークなどの宿題は家でしたことがなく
「学校でしてきた」「学校に忘れて手元に無いから明日学校の休み時間にする」
とごまかして取り組まないこともありました。
親の考えとしては、「学校のことは先生にお任せしよう」と思っていたので、
そのことについてあまり問いただすようなことはしませんでした。
それよりも、家庭内で起きる問題が娘の命に関わることだったので、そのことで日々一生懸命でした。
水分、塩分を過剰摂取したり、内服薬を飲まずに隠したり、歯磨きをしなかったり(心疾患者は歯の管理が大事)。
基本的生活習慣についてもおろそかで、脱いだ服や使ったものを片付けなかったり、
鼻炎なのでよくティッシュを使うのですがそのゴミを捨てなくて机の上に大量のティッシュが散乱したまま放置されたり…
これまではできていたようなことも含めて『毎日当たり前にすること』をしなくなっていきました。
このころ、毎日同じことを注意しても自ら取り組もうとしないのは「したくないからしない」のだと思っていました。
むしろ『前は出来ていたこと』すらしなくなっていくことに学校の先生からも反抗期かと問われるようになっていきました。
反抗期と言ってしまえばそうなのかもしれないと思うような態度ではありましたが、
そうではなく、表現が難しいのですが「こう伝えたら気付くだろう」というところが伝わっていないような感覚がありました。
中学生になったのに、保育園年長の弟と同じレベルで物事が進んでいくような、後退していくような感覚でした。
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