第3章3-5⑤教育との関わり
病気の治療と中学校の選択
中学進学が近づいてきて、このまま入院して治療を続けるか、通院が多くなるけど可能な限り自宅に帰り「外」で過ごしてみるかという選択をしなければなりませんでした。
本来なら自分の住んでいる学区の中学校へ通うものですが、椿にはこのとき、3つの選択肢がありました。
1つ目は倉敷中央病院の院内学級、2つ目は早島支援学校、3つ目は地域の中学校でした。
中学2年生の授業で取り組んだ「14歳の手紙」の返事にも椿自身の言葉でこう綴られていました。
「入院していたお陰で、自分よりしんどい子がたくさんいると知り、その子のためにも外で椿は、たくさんの物を見て、楽しもうと思った。」と。
椿は入院生活の継続よりも退院を望んでいました。
院内学級で過ごした時間に感じることがあり、このときに椿なりに決意していたのでしょう。
家族と一緒に過ごせること、「外でいろんな世界をみること」を優先に家に帰る方向で話が進みました。
病弱部のある支援学校
【出典:Facebook】
早島支援学校
昭和49年に隣接する国立岡山療養所(現独立行政法人国立病院機構南岡山医療センター)の入院生を対象とした県下唯一の病弱養護学校として開校しました。
現在では岡山県立早島支援学校に名前が変わり、病弱部・派遣学級・肢体不自由部・訪問教育を有する全国でも数少ない複合的な特別支援学校です。
【参考:岡山県立早島支援学校】
椿のように病気と共にがんばっている子どもたちが、身体的な事情で普通学校に通うことが難しい場合、教育委員会の許可を得て支援学校に通学することができます。
院内学級に通っていたころに、はじめて早島支援学校の話を聞くようになりました。
小学6年生のとき、椿にも倉敷市教育委員会から来年度早島支援学校に通うよう通知が来ていて、見学にも行ってきました。
早島支援学校はとても大きく、見学に行った当時は改装工事中でした。
工事音が響く中、薄暗く寒い校内を見学した覚えがあります。
肢体不自由の学級は普通学校では受け入れが難しく、早島支援学校へ通う子が多いそうです。
そのため肢体不自由部は生徒数が多い分、先生の数も多く環境が充実していてとても楽しそうに見えました。
ですが、病弱部は全体的に人数が少ない印象でした。
小学部、中学部、高等学部とあり、当時小学部10数名、中学部2名、高等学部10数名ほどでした。
早島支援学校ができた当初は、隣接している南岡山医療センターに入院している患者が多く、院内学級と連携を取りながら充実した支援を受けられる環境下にあり、生徒数も多かったそうです。
でも、南岡山医療センターの入院患者数が減ってからは早島支援学校の病弱児の生徒数も年々少なくなっていったと、南岡山医療センターの医師から話を聞くことができました。
椿が院内学級に通っていたころ、実際に当時早島支援学校に在籍中の中学生の男の子のお母さんと知り合うことができ、学校の現状を聞くことができました。
「学校に生徒がいない時間の方が多いのであまり充実していない」という話でした。
実際に通われている家族からのリアルな話を聞いて、親としては不安が大きくなりました。
それに実際、闘病している子どもたちはもっといるはずなのに、県下唯一の病弱部のあるこの学校に数名しか通っていないという現状に疑問しかありませんでした。
ほかの闘病している子どもたちは地域の学校へ通えているのでしょうか…?
在籍する生徒は闘病中のため、通院や自宅休養も多く必然的に出席できる日が少なくなります。
もし早島支援学校に入学したとしても、先生と椿だけの空間になってしまう可能性が高いと考えました。
いくら1対1で授業を受けられたとしても同級生のいない教室を想像するとさみしいものです。
からだを労って考えるなら早島支援学校に通うほうがいいかもしれません。
でも「椿ちゃんのペースに寄り添ってもらえるなら普通学校に通える状態」だと主治医からも言われていたし、本人も「ひとりぼっちより同年代の子が過ごす学校がいい」と言いました。
親としても、「まだ自分で動ける元気のある今のうちに、同年代の子が通う学校でしかできないことを、椿に体験してほしい」と話しました。
【関連記事】
2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
2-11 ①最期の14日間-1
3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
3-3 ①医療との関わり
⑤教育との関わり
続きはこちらから