第3章3-5③教育との関わり
家庭環境の変化
小学3年生になり、担任の先生も変わり、クラス替えもありましたが、やはり学校での椿は遠慮がちな態度が増え、内向的になっていったように思います。
このころの体調は安定していて、免疫もしっかりついていたので、月1の受診日以外の日は学校にほぼ毎日通えていました。
周りの子は習い事をする子が多かったこともあり、椿が自分から「硬筆を習いたい」と近所の教室へ通うようになりました。
勉強の方も3年生の内容までは家庭で復習しながら理解できていたように思います。
3年生の終わりがけに体調を崩すことが増え、習い事も続けることができなくなり辞めました。
学校へは1週間ごとに登校、欠席を繰り返すようになりました。
小学4年生になってからもそのサイクルは変わることはなく、この生活が続くことでだんだんと学校へ行きづらくなっていきました。
休みグセが付いていたこともあり、このころから体調が悪くなくても、朝になると学校に行きしぶる事が増えるようになっていきました。
家庭の環境も悪くなり、4年生の夏休みを待って子どもたちを連れて実家に帰りました。
夏休みを利用して、椿と家庭のこと、学校のことをしっかり話し合いました。
しばらく実家で暮らすことになり、まずは実家近くのわたしも通っていた母校の小学校へ見学を申し込みました。
その上で、今の通い慣れていて友達もいる学校に、残り2年間卒業するまで通うか、実家近くの1クラス20人に満たない小規模校に転校して通うか、椿自身に決めてもらいました。
「今の学校は人数が多くて疲れる」「友達もそんなにいないからいい」と言い、実家近くの小学校へ通うことに決めました。椿も環境の変化を求めていたのです。
実家近くの小学校には、夏休みの間に転校希望の旨を相談に行き、家庭と病気の事情を包み隠さず全て相談しました。
これまでの病気の問題だけでなく、両親の離婚も加わり、子どもにとってはナイーブな問題なので慎重に相談しましたが、快く受け入れてくださいました。
少人数の学校だったので、先生の目が行き届いていて、何より校長先生が優しく、いつも椿が登校するまでくつ箱で待っていてくれ、教室まで荷物を持って一緒に連れて行ってくれ、本当によく気にかけてくださっていました。
先生方の助けもあり、体調が良い日は椿も安心して通っていました。
生徒たちも優しく受け入れてくれました。
人生ではじめての宿泊研修、1泊2日の山の学習のとき。
椿はとても楽しみにしていましたが、当日に咳が出て辛かったので夕方まで家で過ごし、先生と電話で相談して夕方から参加させてもらいました。
本人が「ママなしでひとりで行きたい」と言ったことを尊重してくださり、付き添いなしで一泊することができました。
親族以外とはじめての宿泊体験に、母の方が緊張して電話を握りしめ眠れませんでしたが、本人は特別に用意してもらった先生との共同部屋で誰よりも早く寝たそうです。(笑)
次の日はみんなが帰るよりも少し早めに迎えに行き、みんなより先に帰路に着くように対応しました。
リスクも理解しながら本人の意思を何よりも尊重し「お任せ下さい!」と言って受け入れてくださった校長先生、快く対応してくださった先生方に感謝ばかりでした。
ですが、ここでの生活は長く続きませんでした。
実家の環境が椿に合わず、原因不明のじんましんと咳が頻回(ひんかい)に出るようになりました。
じんましんの症状ははっきりした原因がわからず、複数の病院にか相談に行き、最終的に細かなアレルギー検査でカビやハウスダストが原因である可能性が浮上しました。
咳も風邪という診断がついていましたが、そうではないという可能性がでてきました。
実家も築年数が経っていたり管理が行き届いていなかったこともあり、健康体であれば問題なく過ごせる状況でも、基礎疾患のある椿は少しずつそういった悪いものが蓄積し辛い症状が現れたのだと思います。
椿の体調を最優先に考え、子どもたちとも相談し、倉敷中央病院の近くに家を借りて3人で家を出る決意をしました。
心機一転
椿が5年生になる時期に合わせて、病院近くの環境の良さそうな小学校に転校しました。
このときも事前に学校見学を申し込み、事情を説明して受け入れてもらいました。
今度はひと学年が30人×3クラスの中規模校です。
校長先生も他の先生方も理解があって優しく、生徒たちも優しく受け入れてくれました。
椿にとって3校目となったこの小学校では、毎日交代で2名ずつの生徒が「椿のお世話がかり」としてついてくれました。
朝、くつ箱が混雑する時間帯をさけて登校する椿をくつ箱までお迎えに来てくれ、くつの出し入れから荷物運びまでしてくれていました。これには感動しました。
子どもたちが「させれられている」のではなく、椿のお世話をすることを喜んでいる事が伝わってきたからです。
5年生という高学年の余裕と、優しい子育てをしている地域性を感じました。
ただ、難関だったのは教室へ向かう階段でした。
5年生は高学年なので最上階の3階の教室まで登らなければなりませんでした。
階段は心臓病患者にとってはとてもしんどいものです。
もともと血中の酸素飽和度が80%台の椿にとってはかなり過酷なものです。
毎日時間をかけて1段1段ゆっくりとがんばって登りました。
お世話がかりの生徒たちはその様子を心配そうに見守り、ときおり「頑張れ!」と励ましてくれながら一緒にゆっくりと階段を登ってくれました。
椿も泣きながら、思うようにならない体をくやしそうにしながらも、がんばって階段を登りました。
学校全体がアットホームな環境で、先生も生徒も優しく、家に遊びに来てくれるお友達もできました。
母ひとり子ふたりの生活は、たくさんの助けの中で成り立っていきました。
実家を出るキッカケとなった謎の発疹もすっかり出なくなりました。
微熱と咳と風邪のようなものは軽度になったものの、完全になくなりはしませんでした。
それでも、みんな心の調子は良く、これまでにないくらいとても楽しい時間を過ごしていました。
学校行事なども、校長先生、学年主任、担任の先生、養護の先生が必ず話し合いに参加してくれて、事前に入念に話し合い、本人が無理なく参加できるように工夫して特別対応してくださいました。
いつも、みんなが椿のお母さんのような温かさを感じられる意見を出し合ってくれました。
宿泊研修の海の学習では、前年の山の学習での宿泊体験が良いモデルとなりました。
そのお陰で先生方も快く受け入れてくださり、今回もひとりでの宿泊を成功させました。
当日は椿の体調もよく問題なく過ごすことができました。
海の学習恒例のイベント、地引網には参加せず、無理なく過ごせる環境を用意してくれ、養護の先生と貝をひろい集めるミッションを楽しんだようです。
みんなとバスで帰ってきた椿は「先生と貝拾いを楽しんだよ!」と嬉しそうに、」満面の笑みと、おみやげに大きくてきれいな貝殻をたくさん持って帰ってきてくれました。
こうした課外授業や宿泊研修は子どもたちの成長にとても大きな影響を与えるものだと思います。
難病児が他の子どもたちの中でこうした経験を体験させてもらうためには、どうしても特別に目をかけてもらう必要があります。
4年生の山の学習、5年生の海の学習でも本人の気持ちを優先し、寄り添って、病気のことに配慮しながら工夫して対応してくださり、同級生の輪の中に娘を入れて「どうにか一緒に参加できる環境を整えよう」と動いてくださいました。
差別のない、協力的な対応に感謝の気持ちでいっぱいでした。
もちろん本人の体調が最優先ではありますが、難病や障がいを抱えた子どもたちも、椿のように生徒の中に入って、たくさんの経験ができることを願います。
そのためには、やはりまわりの理解や本人とのコミュニケーション(=互いの信頼関係を築くこと)や環境作りがとても大切になってくると思います。
子どものころに過ごした経験や体験・思い出は、生きていくうえで大切な心の軸になっていくと、わたしは思っています。
だから、なるべく体験させてやりたかったし、本人もやりたいほうなので、こうして参加させてもらえたことは感謝ばかりです。
難病を抱えながらとなると、今後どうなってしまうかわからない不安も身近にある生活だからこそ、その瞬間しか経験できない思い出があるとしたらその瞬間に経験させてやりたいと、そう思う親心もあるということも知ってほしいです。
そういうことを含めて、関わる方がどの程度何ができるか…みんなで考えていける環境にしていきたいですね。
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3-3 ①医療との関わり
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