第3章3-5②教育との関わり
小学校入学
小学校に上がる前、当時椿が通っていた幼稚園の園長から、隣接している小学校の校長に情報共有をしていただき、小学校入学前に椿といっしょに学校へ事前面談に行きました。
小学校は幼稚園と比べものにならないくらい人数が多くなりました。
幼稚園ではひと学年30人2クラスほどで行動していましたが、小学校は30人×6クラス(ひと学年約200人ほど)が6学年あるので、全体で1000人以上のいわゆるマンモス校でした。
人数が多いことには不安もありましたが、幼稚園のとき同様、これまでの病歴・手術歴を簡単にまとめたものと「気をつけてほしいこと」を書面にして学校に持って行き、本人、家族、学校側がお互いに安心して過ごせるよう話し合いをすることができました。
椿の病気について理解してもらうために、全校生徒の前で椿が心臓病であることを校長先生から簡単に共有してくれました。
この地域に住んで3年目だったこともあり、近所周り、幼稚園が一緒だった生徒、保護者は椿が心臓病であることは周知してくれていて、協力的に温かく見守ってくれる環境になっていたと思います。
マンモス校のため教員の数も多く、たくさんの眼で見守ってもらえているように感じました。不安な点を事前に相談できていたお陰もあって、とても良心的に対応してくれました。
手が空いている支援の先生がなるべく椿と一緒に過ごしてくれている様子でした。
毎日登校班の一番後ろに付いて、わたしも一緒に歩いて登下校していました。
毎日私が送り迎えをするので、朝、下駄箱で先生にその日の本人の体調や連絡事項を済ませました。
椿も元気に過ごせていたし、自分の体調不良などはすぐに先生に報告することもできていて、付き添い登校もはじめの数週間のみで大丈夫でした。
お迎えのときも先生と顔を合わせ、何かあれば報告を受けました。
行事等で気になることがあれば、事前に学校から声がかかり、打ち合わせをして問題が起きないように対応してもらいました。
プールの授業や遠足(郊外授業)のときはわたしが付き添いをするようにしていましたが、それ以外のことは本人と先生で話し合って解決してくれることが多くありました。
そうして順調に過ごせていた1年生の夏休みに、ペースメーカーの電池消耗により入れ替える手術を受けることになりました。
夏休み中に計画的に行えたことで学校への影響もなく過ごせました。
運動会では、みんなより走る距離を短くしてもらう配慮もあり参加することができました。
クラスで一番大きな声が出せるので先生に褒められることもありました。
1日5時間授業がある日は、丸1日授業に参加するのはまだしんどく、病院の先生からも途中で休息をとるように指示がありました。
学校に相談すると、お昼休みに和室を使えるように許可してくれ、自宅から持ち込んだお昼寝布団でお昼寝をして休憩し、午後からの授業もがんばれていました。
その部屋は他の生徒も休憩に来ることがあり、そんなときはお昼寝をせず、いっしょにおしゃべりをして過ごすこともあったみたいです。
学校側の丁寧な対応のお陰もあり、1年生の間は大きなトラブルもなく、椿らしく楽しく通うことができていました。
心の変化
2年生になったころから、少しずつ椿に変化を感じるようになっていきました。
クラスの男の子に「遅い!早くしろ!」と言われたことに深く傷つき「行きたくない」という日があったり、「学校に行っても友達いないもん」と言うようになったり、心の不安が見えるようになっていきました。
それまでは男の子にそう言われたとしてもはね返せるような気持ちの持ち主だと思っていたので、不思議に思い担任の先生に確認にてみると、椿は学校生活を問題なく過ごせているという学校側の判断で、1年生の頃に付いてくれていた支援の先生が他の生徒に付く頻度が増え、椿が一人で過ごす時間が増えたと報告を受けました。
てっきり支援の先生は2年生でも付いてくれると思っていたのですが、事前の説明もなく支援の頻度が減ってしまっていました。
そのせいでひとりの時間が増え、不安になっていたのだと思います。
その後、何度か話をしましたが、椿のために専属で学校支援員を手配するのは難しいと説明を受けました。
「支援員をひとり手配したとして、椿さんが学校に来れない日もその人にお給料を支払わなきゃいけなくなります。そういった負担面からしても難しいのです。」と、リアルな現実の説明をされました。
納得はできないけど、納得するしかない状況でした。
他の生徒たちも多感な時期で、心も身体も大きく成長していく2年生。
元気に外で遊ぶ友達を横目でみて、「椿は外で遊びたくてもしんどくて遊べないし、そもそも外で遊びたくないし、一緒に遊んでくれる友達がほしいけど声をかける勇気もない…。」と感じていることを教えてくれたことがあります。
椿自身、自分と周りとを比較するようになってきて、それまではあまり感じてこなかった周囲との差を感じるようになっていました。
「椿はみんなと違う」ということを本人が自覚しはじめたのがこの頃です。
そうして過ごすなか、ペースメーカーのリード断線が起きました。
ペースメーカーのリード断線は珍しいことだそうで、早急にリードを繋ぐ手術をすることになりました。
しばらくの間学校をお休みしなければなりませんでした。
11月に手術をして、胸水の心配から1ヶ月間水分制限が課せられました。
退院して学校に復帰しても、水分制限は続いていたので、給食の時間になるとわたしが毎日息子を抱っこひもで抱えて学校へ行き、椿の給食を持参した計量器で計り、水分量を計算してから食べていい量を食べさせるようにしていました。
椿は好き嫌いが多かったため副菜は残すことが多かったようですが、このころの学校の決まりでは、お皿の中のものを全部食べ終わるまで立ち歩き禁止だったので椿は時間いっぱいかけて給食の時間を過ごしていたようです。
このころの教室で過ごす椿は、1年生のときのようなハツラツとした元気さはなく、小さくまとまっていて控えめな印象を受けました。
家ではいつもの元気で笑顔の椿なのに、教室で過ごす椿は違っていたのです。
今思えば、このころから発達障害の傾向が出ていて「困りごと」がではじめていたのかもしれません。
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2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
2-11 ①最期の14日間-1
3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
3-3 ①医療との関わり
②教育との関わり
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