第3章3-5⑮教育との関わり
学校と最期の過ごし方
先生たちが優しくなったことで1日に1時間だけ学校へ行くようになりました。
椿自身も変わろうとしていました。
椿の受けたい授業(担任の受け持ちの国語のみ)を受けるか、保健室で養護教諭と話すか。
登校した日はシールを貼ってモチベーションをあげようと連絡帳にカレンダーを貼り付け、シールも準備してくれました。
でも、椿のモチベーションはそこまで上がらず、だんだんと行く頻度は減っていきました。
早島支援学校に行くと学校に伝えてからは、わたしも椿ももう気持ちを切り替えて次を見て進んでいました。
しんどい場所にいつまでもすがって過ごすより、楽しい気分になれる居場所を、椿が椿らしく過ごせる別の居場所を見つけようと行動していました。
そうして学校へはほとんど行かなくなっていた頃に余命宣告を受けたこともあり、「最期の1ヶ月間は学校へは行かず家でのんびり過ごします。」と電話で伝えました。
学校の方は「いつでも来てください。待っています。」と言ってくれていました。
もちろん椿が学校へ行きたいと言えば連れていきましたが、1度も言いませんでした。
友達に逢いたいとも言いませんでした。
1度だけ、病院の帰りに椿を車に乗せたまま弟を学童へ迎えに行ったとき、たまたま下校の見守りで先生方が外におられて、車内に椿が乗っていることに気がついて集まって来てくれました。
2年団の先生が、助手席に座っている椿に順番に声をかけてくれました。
椿はこのときとてもうれしかったようで、亡くなる数週間前にこの日のことを思い出して「あの時はうれしかったなぁ、また2年団の先生みんな会いに来てほしいなぁ」と話してくれました。
それ以降は椿が学校に行くことはありませんでしたが、担任が自宅に週に1度様子を見に来てくれました。
これには椿もとても喜んで、自分の大切にしているハムスターを見てもらったり、お手製の梅干しを振る舞ったり、毎回10分ほどにこやかに過ごしていました。
担任が家に訪問した4回目の夜、椿が力なく「先生方に借りていた本を代わりに返しておいてください。」と、お願いした日が担任と過ごした最期の日になりました。
これまで見せていたハツラツとした声とにこやかな様子ではなく、力なく弱々しい声を出していた椿の様子をこの日初めて目の辺りにした担任は、「今日は具合が悪そうですね」と玄関先でわたしに言いました。
私は「最近はもうずっとこんな感じですよ。先生が来てくれるのがうれしくていつもその瞬間だけ元気に振る舞っていたから、元気そうに見えていたんだと思います。」と言いました。
この翌週に、学年団そろって自宅にお見舞いに来たいと言ってくれていましたが、実現することはありませんでした。
椿が亡くなる数時間前、病院の病室から学校に欠席の連絡をしました。
この日電話に出たのは学年主任でした。
「先生、もうだめかもしれません。お見舞いに来てくださると言ってくれたのに…。これから自宅に帰りますので、もし良かったら今日来てやってください。」と、伝えると電話越しにすすり泣く様子が伺えました。
「必ず行きます」と言ってくださいました。
その後、帰宅途中に亡くなったため学校へは連絡をする余裕もなく、代わりに旦那さんがお通夜、葬儀などの連絡もしてくれました。
そして、翌日の18時から開かれたお通夜に先生方が来てくれました。
この時に初めて、今年赴任してきた校長先生をお見かけしました。
お見かけしただけで挨拶などはしませんでした。
担任の先生に「明日、生徒も連れて来てもいいですか?」と聞かれ「もちろんです」と答えました。
翌日の葬儀は家族葬だったけど、たくさんの生徒を連れて来てくださいました。
これには椿もびっくりして喜んだことでしょう。
みんなが自分のために泣いてくれ、とても、喜んだことでしょう。
みんなにお願いして少しずつ髪の毛を頂きました。
椿が道中迷わないように道標になってくれるそうです。
お葬式のあと、生徒たちが毎日書く連絡帳の「その日の出来事」を書くところに、葬儀に参列した生徒からたくさんメッセージが残されていたと学年主任から教えてもらいました。
椿の死というものに直面した生徒たちから素直な言葉でつづられていました。
「もっといっぱいお話しておけばよかった」というメッセージが多くあったのが印象的です。
それと、今後も椿を心に置いてくれるのだろうと思えるような温かい内容でした。
来年度の選択で悩んでいるとき、スクールカウンセラーの先生に「生徒たちは何も変わりませんよ。」と言ってもらえたことを思い出していました。
「たとえ大人たちの対応が変わったとしても子どもたちが温かく椿さんを迎え入れてくれていた空間は変わらない。だから椿さんが望むなら普通学級でも良いかもね。」と。
学校での椿の様子は、わたしの知るところではありませんでした。
でも、きっと同年代の子と過ごせる魅力のある居場所であったことでしょう。
この地域に来てもうすぐ2年でした。
みんなとの思い出は少ないかもしれないけれど、ここで中学生の2年間を過ごせたことは、どの瞬間も椿にとっては大切な想い出だったと思います。
椿が最期に書き残してくれた手帳にも「中2」と書いてありました。
自分が「中学2年生」という自覚があった証拠だと思っています。
椿の中にはしんどいながらもみんなの輪の中に入って、学校で過ごした時間に色んな想いがあったのだと思います。
楽しかったこと、悲しかったこと、うれしかったこと、おもしろかったこと、辛かったこと、怒られたことも…
全部かけがえのない大切な思い出です。
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