第3章3-6-①別の居場所
心の問題と難病の狭間で探し続けた【正解】
これまで話したとおり、椿は幼稚園から小学校までは体調の問題を抱えながらも、周りの理解や協力もあり順調に通えていました。
ですが、病気とは別に心の問題も深刻なものでした。
椿は小学2年生の頃から学校に行き渋ることが増えていきました。
その頃から椿が感じていた「みんなと違う自分」から逃げ出したかったのかもしれません。
漠然とした不安を抱えて過ごしていたのかもしれません。
このころに発達障害の気づきがあれば、もっと楽に生きられたのかもしれません。
だけどわからなかった、気づけなかったわたしは、毎朝学校へ行き渋る椿と葛藤しながら、学校へ連れ出す日々が続きました。
行きたくないと言う子どもを学校に連れて行くと決断するのは結構心がしんどいものです。
「体調的に無理はさせてはいないだろうか。心がしんどくなってしまわないだろうか。ここで学校へ行かせなくなったらもう行けなくなるかもしれない。行ってみたら大丈夫になるかもしれない。」
いつも【正解】を求めていました。
だけど正解を見つけ出すのは簡単ではありませんでした。
小学3年生の頃、椿は「しんどい、気持ち悪い、頭が痛い、胸が痛い」と訴えることが多くありました。
この時、この症状が何なのか解決してほしくて主治医に相談し検査してもらったことがあります。
だけど、心臓に関連するものかもしれないその症状は、検査結果には現れませんでした。
わたしからしたら、検査結果で明確に「心臓病からくるしんどさ」だと示してくれたほうが良かったのです…そうすれば椿を疑わなくて済むから。
検査結果に出ない椿の訴える症状は、きっとからだのしんどさからくるものもあるし、心のしんどさからくるものもあったのだろうと思います。
それがどちらからなのか、明確にわからない時点で寄り添って椿の望むように休ませることが正解なのか、学校へ行かせてみて様子をみることが正解なのか、毎朝悩みました。
でも、しんどいなかでも学校へ行かせ、迎えに行くと「学校楽しかった!」「学校行ってよかった!」と笑顔で帰って来て、その日学校であったおもしろかったことを話してくれるのです。
朝むくんでいた顔もスッキリしていました。
椿の場合、家で過ごすよりも刺激がある学校へ行くほうが、体調が良くなることが多かったのです。
とわられた学校という居場所と不登校
椿の倦怠感が慢性化してきた中学生のころも、しんどくても家でだらだら過ごすより学校へ行く方が得るものがあると思い、なるべく学校へ行けるように声かけをしました。
でも乗り気でない椿が発達障害をこじらせて、二次障害になり、先生との折り合いが悪くなっていくなかで、椿を学校へ通わせることが正しいことなのか、だんだんとわからなくなっていきました。
もしかしたら先生側からしたら、私が椿と離れたくて、仕事へ行くために、押し付けられているように受け止められていたのではないかと、感じることもありました。
「間違っていないよ、大丈夫だよ」
そう誰かに肯定されていたら…
「こうした方がいいよ」
と導いてくれたら…
どんなに楽だっただろうと思います。
なぜ、学校に行かせることをわたしが諦めなかったかというと、椿の自立を望んでいたからです。
わたしは椿が生まれてからいつも、椿の未来の心配をしていました。
椿はいつも「ママ」を頼りにしていました。
ママが居なくても生きられるようになってほしかったのです。
わたしは高校1年生のときに母を失いました。
人はいつ死んでしまうかわからないことを実感しました。だから、ママが居なくなったとしても、椿と真剣に向き合って彼女の自立のために支えてくれる、寄り添ってくれるような居場所をずっと求め続けていました。
家じゃない、家族じゃない、「社会の中のそういう居場所」が必要だと強く感じていました。
椿が選べたのは、普通学校の普通級、普通学校の支援級、特別支援学校(知的障害・病弱)、病院内の院内学級などがありました。
教育という枠に捉われなければ、居場所はまだ他にもあったのかもしれません。
療育やその他の支援も上手く活用しながら、心もからだも無理なく楽しく生活できたかもしれません。
発達障害も比較的軽度だから知的障害のみの支援学校に行くのは、椿には違うと感じていました。
今の世の中で生きるには「中途半端」だったのかもしれません。
でも、そういう子どもたちはたくさんいるはずです。
椿はおしゃべりも達者な子だったし、理解力もあったと思います。
ただ疲れたときに少し休憩できる環境や、ちょっとした気配りや声掛けなどの助けが必要でした。
そういった支援があれば生活面でも困りごとは減っていただろうし、楽しめることも増えたのではないかと想像します。
「適切な援助があれば普通学校で生活できる」と医師に診断されていたこと、椿が「みんなと同じ場所」を望んだこともあり、中学校も普通学校を選びました。
この選択が椿にとっては「しんどいもの」になってしまった要因はなんだったのかと考えることがあります。
特別支援学校の中学部に通っている生徒がたくさんいて、同級生といっしょに充実した学校生活を送れていたとしたら、中学校選択のときに早島支援学校に行くという選択をしたかもしれません。
その方が椿のからだにとっても心にとっても良かったかもしれません。
だけど、そのとき見学をして現状を把握して行ってみたいと思わなかったのが事実です。
せっかく『病弱児』の受け入れができる学校なのに「行ってみたいと思えず通わない」というのはもったいないです。
最終的に椿は「ここしか行く場所がないから行く」という感じになってしまいました。
追いやられていく最後の砦(とりで)になるのではなく、「行ってみたいから行く」と言える希望のある学校環境であってほしいと願います。
どこを選んだとしても安心して通える居場所をつくるには?
椿と過ごしてみて「生きる基準をどこにおくか」で難病児+発達障害児の生活は大きく変わるものだと思いました。
学校という居場所に希望を見い出せなくなってしまった椿。
最後まで「学校に行きたい」と言わなかった、言えない環境にしてしまったことが親として、後悔ばかりです。
「そこしかないわけない!」と、もっと柔軟に対応できていれば、違う未来もあったかもしれません。
【この学校はここまでしか協力できない=そこに対応できる児童しか通学できない】
学校側がそんな風に児童や保護者に思わせていいのでしょうか。
どこを選んだとしても、安心して通える居場所に変えていける努力をしてみても良いのではないでしょうか。
これはわがままでしょうか。
また、こういった寄り添いは不可能でしょうか。
もし我が子が難病児、障がい者だとして、どこを選べば「良い環境」だと思えますか?
障がいを抱える子どもが、家族が、先生が、生徒が、みんなが安心して集える教育の居場所は存在しないのでしょうか?
携わる人たちが知恵を出し合えば、その子に必要な支援を受けられる居場所を作り出すことができるのではないでしょうか?
そんな風に生きている人たちにひとつの希望となる、2021年6月11日に成立した法案『医療的ケア児支援法』をご存じでしょうか?
【出典:厚生労働省ホームページ】
もう法案が成立してから2年以上になりますが、現状ではまだまだ水面下での動きしかないようです。
何かを変えるというのは相当に難しいことなのだと理解しながらも、もっと迅速な変化を期待したいです。
だって、子どもたちは今を生きているのですから。
みなさんも、知ることからはじめてみてください。
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2-8 ①発達障害発覚までの経緯-1
2-9 ①発達障害とは?
2-10 ①命のカウントダウン
2-11 ①最期の14日間-1
3-1 ①病気と共にある生活とは
3-2 ①闘病と家族の在り方
3-3 ①医療との関わり
3-6 ①別の居場所
4-2 椿が残してくれたもの